ラスト・ライア
マルベリィの部屋は、彼女ひとりで過ごすには広い部屋だった。
つやつやのフローリングで、壁紙はつい最近、水色と白の縦縞のものに張り替えたばかりだ。
仕事仲間はみんな嫌な顔をするが、ここを訪れる子供たちには好評だったし、何より彼女がいたく気に入っていた。
マルベリィは若い娘にも、成熟した大人の女性にも見える。
いつも開拓時代風の古めかしいドレスを着ていて、彼女の長いブロンドの髪や、深い泉の色をした瞳は、窓から部屋に差し込む光で柔らかく輝くのだ。
部屋にひとつだけある大きな出窓は、繊細なレースのカーテンを通して外の光を導いてくる。
その側に置かれた背の高いスツールに腰掛けて、古い童話を読みふけるのが彼女の日課だった。
今日も、マルベリィがそこに座ってロシアの昔話に夢中になっていると、突然、乱雑にドアを叩く音が聞こえてきた。
「マリィ、開けてくれ」
ぶっきらぼうな若い男の声。仕事仲間のストロゥだ。
マルベリィは本にクローバーのしおりを挟むと、すぐに白く塗られた木製のドアを開けてやる。
そこには黒いマントに身を包み、大きなフードを目深に被った青年の浅黒い顔があった。
マルベリィと視線が合うや否や、ストロゥは無言のまま彼女の前に子供を二人押し込んでくる。
その二人を見たマルベリィは、息を飲み口元を押さえた。
まだまだ幼い少女と少年だ。揃いの赤毛から察するに姉弟だろう、その二人は頭のてっぺんから足の先までびっしょり濡れていた。
弟は全身をぶるぶる震わせてすすり泣いている。
姉は放心したような瞳でマルベリィの前掛けの結び目辺りを見つめながら、その右手はしっかりと弟の手を握っていた。
「まぁ……!」
ため息のような悲鳴を漏らしたマルベリィは屈み込んで、音が聞こえそうなほどきつく二人を抱きしめた。
子供たちはマルベリィのぬくもりに緊張が解けたのか、途端火のついたように泣き出し、彼女にしがみついてきた。
「川に落ちたんだ」
わあわあと泣きつく子供たちの頭を撫でてやっていると、ストロゥの抑揚の無い声が降ってきた。彼も二人と同じく塗れねずみだ。
姉がしゃくり上げながら、必死に説明をしようとする。
「ビルがね、落っこちて……ラズ、助けようとして……!」
それからまだ何か言おうとしていたが、ついさっきまでの恐怖が蘇ったのか再びマルベリィの胸に顔をうずめて泣きじゃくった。
マルベリィはたまらなくなって子供たちをさらに強く抱きしめた。
「ああ、可哀想に! 怖かったわね……よしよし、もう大丈夫よ」
背中をぽんぽんと叩いて慰めてやる。
子供たちが少しずつ落ち着いてきたのを感じ取ったマルベリィは、とにかく二人を部屋に招き入れることにした。
二人はおどおどと肩を寄せ合いながら、マルベリィに背中を押されるまま中央のベージュのソファへと歩み寄っていく。
「ありがとうストロゥ。あなたも休んでいく?」
部屋の隅のチェストからタオルを出してきたマルベリィが、そのうちの一枚を手渡しながら尋ねた。
彼はそれを受け取ると、普段から動きの乏しいその口元をわかりやすく歪めた。彼なりの微笑みだ。
「いや、俺はいい。それより後は頼んだ」
「ええ」
マルベリィが頷くと、彼はさっさとドアを閉めて行ってしまった。
彼女は振り向いて、まだ所在なさげに立ち尽くしている子供たちに大きくタオルを広げてみせると、元気いっぱいの笑顔で言った。
「さあ、ちゃんと乾しましょうね。その間にあったかーいココアを淹れてあげるわ」
青ざめ張り詰めていた子供たちの表情が、ようやくほころんだ。
甘いココアとマルベリィ手製のクッキーで、ラズとビルはすっかり落ち着きを取り戻した。
二人はマルベリィにたくさんのことを話してくれた。マルベリィもそれを熱心に聞いていた。
なぜ川に落ちたのかから始まり、近所の遊び場のこと、仲のよい友だちのこと、一緒に育った大きな飼い犬のこと、そして厳しくも優しい両親のこと。
この二人がまわりから本当に愛され、幸せに暮らしていることがひしひしと感じられて、マルベリィまで嬉しくなってしまうような楽しいひとときだった。
気が済むまでおしゃべりを終えると、姉のラズがぽんと手を叩いて言った。
「そうよ、今日はママがシチューを作ってくれるんだったわ」
「それにパパも早く帰るって言ってたよね。ラズ、もう帰ろう?」
姉弟の言葉に、カップを口に運びかけていたマルベリィの手がはたと止まった。
「もう帰ってしまうの?」
マルベリィの柔らかな表情がかすかに揺れる。その声には明らかな寂寥が満ちていた。
子供たちもそれを敏感に感じ取ったようだったが、両親への寂しさが勝ち、早く帰らなければいけない気持ちになっていた。
窓の外の明るさは二人がここへ来た時からほとんど変化していないが、ずいぶん長居していたのは確かだ。
ココアの最後の一滴まで飲み干すと、幼い姉弟はソファを立った。
「うん。ママたちも心配するし」
「マリィお姉ちゃん、クッキーごちそうさま!」
そう無邪気に笑って、ラズとビルは跳ねるように白い扉へと向かった。
ところが、ラズがいくらノブを回して押そうとしても、木の扉はびくともしない。
小さな体全部を使って押しても、引っ張ってみても結果は同じだった。
「まぁ、開かない?」
ラズに代わって今度はマルベリィが扉に手をかけるが、彼女は数秒とたたずにあっさりと諦めた。
「ごめんなさいね。このドア、建て付けが悪くって。すぐこうなってしまうのよ」
「え、じゃあ僕たち出られないの?」
ビルが泣きそうな声を上げる。
男の子なんだから泣かないの!とラズが姉らしく励ますものの、ビルの瞳にはじわりと涙が滲み出した。
マルベリィは長いこと躊躇った。
実際には、彼女が扉を揺すっていた時間よりもずっと短い間だったが、彼女にはそれが永遠にも感じられた。
それでもこれが彼らのためなのだと自分に言い聞かせ――ああ、これで一体何度目の決意か!――ビルの柔らかい赤毛に、そっと手を置いた。
「じゃあ、あの窓から出てみましょうか」
指差した大きな出窓からは、可愛らしいレース越しに燦々と光が差し込んでいる。
マルベリィは姉弟の背を優しく押して窓の前まで連れて行くと、ざあっとカーテンをずらし、両開きの窓を勢い良く開け放った。
爽やかな風が部屋に吹き込み、柔らかな光には暖かい熱を感じる。
窓の向こうに広がった景色に姉弟は言葉を失い、揃って小さく息を飲んだ。
どこまでも続く果てしない空。
近くに遠くに浮かぶのは大小にちぎれた羊雲。
しかし、どんなに目を凝らしても大地は無い。海も見えない。太陽も無い。
地上も海も宇宙さえも存在しない空だけの世界に、その窓は一つだけぽつりと浮かんでいたのだ。
驚く幼い子供たちをマルベリィは一人ずつ抱え上げ、出窓の棚の上に乗せてやった。
子供たちは恐々ながらも四つ這いで窓ににじり寄り、慣れてくると身を乗り出してその絶景に見入った。
「すごい!」
見たことのない景色にビルは大はしゃぎだったが、ラズの方は何やら不安そうな顔でマルベリィを振り返る。
「マリィお姉ちゃん、ここはどこなの?」
姉の問いかけにビルも振り向いた。
見開かれた大きな瞳が二組、じっとマルベリィを見下ろしてくる。
マルベリィは静かに微笑んで、いつもの言葉を紡いだ。
「黙っていてごめんなさい。ここはあなたたちの夢の世界なの。どうやってここまで来たか、覚えていないでしょう?」
「でも、ストロゥお兄ちゃんが助けてくれて……」
「うーんと……あれ?」
「ほら」
同じ方向に首を傾げる姉弟が可愛らしくて、マルベリィは無意識に頬を緩めた。
「とっても怖い思いをしたあなたたちに、楽しい夢を見せてあげるのが私たちのお仕事なの。私たちは夢の妖精。あなたたちだけじゃないわ、今までにも沢山の子供たちがここへやってきて、みんなその窓から帰っていったのよ。けがなんて絶対にしないから大丈夫」
「もしかして、ドアが壊れたのは、わざとなの?」
ラズの賢い質問に、マルベリィは驚きながらも深く頷いた。
「夢の世界は道が決まっているのよ。眠ってしまったら、あとは目を覚ますしかないでしょう? 道を間違ってしまうと、大変なことになるの」
「大変って、どうなるの」
ビルが怯えながら訊いた。
「そうね。迷子になって、永遠に出られなくなってしまう。でも心配いらないわ。ドアと窓なんて、だれも間違えたりしないでしょう」
ビルの頭を安心させるように優しく撫でたマルベリィは、再び姉弟を窓の方に向かせると、二人の手をとって互いにしっかりと握らせた。
「さあ、もう時間よ。パパとママが心配するわ」
「パパたちにすぐ会える?」
窓枠に立ち上がったラズが顔だけで振り返る。
その目にあるのは不安よりも、何かを確かめようとでもいった強い光だ。
隣に立ったビルはそんな姉の横顔をこわごわ見上げながら、この部屋にやってきた時と同じように固く手を繋いでいる。
マルベリィは二人に向かい、深い泉のような瞳を揺らして、包み込むような笑顔を浮かべた。
「ええ、すぐに」
幼い姉弟は永遠に広がる空に向き直ると、小さな手をもう一度繋ぎ直した。
別れの瞬間に備えてマルベリィが肩に力を入れたとき、ラズが弟にこう語りかけた。
「ビル、絶対に手を放しちゃだめよ」
「ラズ?」
「何があっても、ずっと一緒にいるんだからね。約束よ」
「……? うん、わかった。約束する」
はっとして顔を上げたマルベリィが言葉を見つける前に、せーの、と声を掛けた二人は同時に空へ飛ぶ。
足が窓を離れ、空中に体が放り出されたその瞬間、二人は光となってはじけた。
風に浚われ、消えた。
マルベリィはしばらくの間、その場から動けなかった。
窓の前に立ち尽くし、何もない虚空をいつまでも呆然と見つめたままでいた。
「おつかれ」
くぐもった労いにようやく振り返ると、いつの間にかストロゥがソファで寛いでいた。
明るいこの部屋にはなかなか不釣り合いな彼は、黒いフードを背中に垂らし、軽く両の腕を組んでいる。
そして、乏しい表情ながらわずかに怪訝そうな色を浮かべてマルベリィを見上げてきた。
「どうしたんだ。本当に疲れたのか」
「そんなことないわ。それよりそちらはどうだったの」
子供たちに向けていたより幾分固い声で、マルベリィはストロゥに尋ねた。
「やはり人間は無理だったが、飼い犬がいたから事の次第と場所を伝えておいた。賢い犬だし、だいぶ騒いでいたからすぐに両親も気付くだろう」
「そう、ありがとう」
「あいつらは偉かった。最後まで手を握って離さなかった。今もちゃんと二人一緒だ」
「そう」
「二人とも、綺麗な顔だった」
「……そう」
ごく主観的な報告を手短に切り上げたストロゥは、おもむろに黒いマントの内側から生白い仮面を取り出して弄び始めた。
歪な笑いを浮かべる髑髏の面だ。
漆黒のローブと、その面と、今は見当たらない巨大な鎌が彼の本来の仕事着なのだが、マルベリィの下に配属されるといつしか身に着けることの方が珍しくなっていた。
「マリィ、本当にどうした。いつも以上に元気がないぞ」
子供たちを送った後にマルベリィがふさぎ込むのはいつものことだったが、今日の様子は尋常ではないとストロゥも気がついていた。
マルベリィはこの心のさざめきをどう表したものかわからないまま、何度も何度も重ねてなお答えの出ない疑問を若い後輩にぶつける。
「私のやり方は間違っているのかしら。私はただあの子たちを傷つけたくないだけなのに、それが本当にあの子たちのためになっているのか、私にはわからないの」
ぶつけられたストロゥも困惑するしかない。まだ駆け出しを一歩抜けた程度の経験しかない彼が、マルベリィに掛けられる言葉は少ない。
しかし彼には、マルベリィの下で働く彼なりの確かな軸が存在していた。
「正しいかどうかは答えられないが、マリィは立派だと思う。人間の魂を連れてきて消すだけの仕事にこんなに心を痛めて、本気で悩んでいる死神は他にいない。俺だってそんな気持ちは知らなかった。だからこそ俺はマリィの部屋に来たかったんだ」
淡々とそう言ったストロゥは、相変わらずの仏頂面だが今度は心からマルベリィをいたわるように、辛いな、と呟いた。
「本当に辛いのはあの子たち。私はただの嘘つきよ。何も知らせないままなんて……なんて、むごい嘘。酷い女」
マルベリィは瞼を伏せて、くるりとストロゥに背を向けた。
窓から吹き込むそよ風が俯く前髪を揺らす。
「だが、また泣くんだろう?」
背後にかかる声を聞くより前に、彼女の睫毛は滲む雫で濡れていた。
拭おうと指で擦れば擦る程、熱い涙は余計に溢れて止まらない。
ついに嗚咽が抑えきれなくなった頃、再びストロゥが言った。
「俺も部屋を持ったら、あんたのような死神になりたいな」
「何を言うの。私は死神失格だわ」
顔を覆い、被りを振って泣き続ける彼女の震える肩を眺めて暫く間を置いてから、彼は小さく言い直した。
「そうか。なら俺は、あんたのような嘘つきになりたい」




