第8話「春を呼ぶ鼓動」
城の高層階に位置するバルコニーからは、見渡す限りの広大な領地を一望できた。
かつて視界のすべてを覆い尽くしていた銀白の雪原は姿を消し、今は柔らかな緑の絨毯がどこまでも連なっている。
深い森の木々は瑞々しい葉を茂らせ、その間を縫うように流れる川は陽光を反射してきらきらと輝いていた。
空は高く澄み渡り、雲ひとつない群青色の天蓋が広がっている。
吹き抜ける風はもはや肌を刺す刃ではなく、温かな土の匂いと花の香りを運ぶ優しい調べへと変わっていた。
アサヒの力が引き起こした奇跡は、中庭だけにとどまらず、フロスト帝国全土にまで波及していたのだ。
凍てつく死の大地と呼ばれたこの国は、わずか数週間のうちに、豊かな生命が息づく豊穣の地へと生まれ変わった。
バルコニーの丸テーブルには、純白のテーブルクロスが掛けられ、銀のティーセットが上品な輝きを放っている。
カップから立ち上る紅茶の香気が、微かな甘さを伴って空気に溶け込んでいた。
アサヒは肘掛け椅子に深く腰を下ろし、眼下に広がる景色を眩しそうに見つめていた。
彼の隣には、レオンハルトが静かなたたずまいで座っている。
黒の外套を脱ぎ去り、仕立ての良さを感じさせる薄手の白いシャツ姿になった彼は、以前のような近寄りがたい雰囲気をすっかり潜めていた。
銀糸の髪が春の風に揺れ、横顔の輪郭を柔らかく見せている。
「領民たちの顔色が見違えるように良くなった」
レオンハルトがカップをソーサーに戻し、静かな声で口を開いた。
その声には、長年背負ってきた重圧から解放された安堵の響きが混じっている。
「土を耕し、種をまく者たちの声が、城にまで届くようだ」
「皆さんが喜んでくれているなら、僕も嬉しいです」
アサヒはカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
自分の持つ不可解な力が、これほどまでに多くの人々を救うことができるとは想像もしていなかった。
追放された時には自分は無価値な偽物だと絶望しかけたが、今は違う。
この場所で、必要とされているという確かな実感が、アサヒの心を温かく満たしていた。
ルークがバルコニーの床に横たわり、温かい日差しを浴びながら気持ちよさそうに寝息を立てている。
その穏やかな光景を見つめていたレオンハルトが、ふいに身を乗り出し、アサヒの顔を真っ直ぐに見据えた。
「アサヒ」
名を呼ばれ、アサヒはわずかに肩を震わせる。
レオンハルトの瞳の奥に宿る熱は、中庭で手を握られたあの時よりもさらに深く、逃げ場のないほどに濃密なものへと変わっていた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、アサヒの頬にかかる黒い髪を指先でそっとすくい上げた。
指が耳元の素肌に触れ、微かな電流が走ったようにアサヒの背筋が粟立つ。
「お前がこの国にもたらしたのは、大地を蘇らせる春だけではない」
レオンハルトの親指が、アサヒの頬の輪郭をなぞるようにゆっくりと滑り落ちる。
その触れ方は、壊れ物を扱うように繊細で、彼の内にある深い愛情をそのまま形にしたかのようだった。
肌越しに伝わる体温が、アサヒの顔を徐々に赤く染め上げていく。
「永遠に凍りついたまま朽ち果てると思っていた私の心に、命の火を灯してくれたのも、お前だ」
低く囁くような声が、アサヒの鼓膜を甘く震わせる。
レオンハルトの顔が近づき、二人の距離がほんの数センチにまで縮まった。
彼が吐き出す息の温もりが唇に触れ、アサヒは無意識のうちに目を伏せる。
胸の奥で激しく打ち鳴らされる鼓動の音が、自分の耳にまで聞こえてきそうだった。
恐れや戸惑いは、もはや微塵も残っていない。
ただ、目の前の男にすべてを委ねたいという静かな熱が、アサヒの全身を支配していた。
レオンハルトの指先がアサヒの顎を捉え、少しだけ上を向かせる。
視線が交差し、互いの呼吸の深さが完全に同調したその瞬間。
背後の部屋の奥から、慌ただしい足音が響いてきた。
「陛下! 緊急の報せでございます!」
空気を切り裂くような兵士の切羽詰まった声に、魔法のような時間は無残にも打ち砕かれた。
レオンハルトは小さく舌打ちをし、名残惜しそうにアサヒの頬から手を離す。
一瞬にして、彼の表情は甘やかなものから、冷酷な皇帝の仮面へと切り替わった。
周囲の温度がわずかに下がり、柔らかな春の風が鋭さを取り戻す。
「何事だ」
レオンハルトの声には、先ほどまでの温かさは欠片もなく、氷の刃のような冷ややかさが宿っていた。
息を切らせて駆け込んできた兵士は、二人の間の空気を察して青ざめながらも、震える声で報告を紡ぐ。
「南の国境を越え、隣国の軍勢が接近しております」
その言葉に、アサヒの心臓が不吉な音を立てて跳ねた。
隣国。
それは間違いなく、自分を偽物と蔑み、この地へと追放したあの国を意味している。
「先頭で指揮を執っているのは、第一王子エドワードと名乗る男です。彼らは強引に関所を突破し、この城へと真っ直ぐに向かってきております」
エドワードという名を聞いた瞬間、アサヒの脳裏に、あの冷たい石造りの部屋で向けられた軽蔑の視線がフラッシュバックする。
手のひらに滲む汗の冷たさが、忘れかけていた恐怖を鮮明に蘇らせた。
レオンハルトは立ち上がり、微かに震えるアサヒの肩を大きな手で力強く包み込んだ。
その温もりが、恐怖に凍りつきそうになるアサヒの心を繋ぎ止める。
「案ずるな」
レオンハルトの青い瞳が、燃えるような決意を帯びてアサヒを見下ろした。
「お前は、私が守る」
足元で目を覚ましたルークが、遠くから漂ってくる不穏な気配を察知したのか、喉の奥で低く唸り声を上げた。
穏やかな春の景色の中に、どす黒い影が静かに、しかし確実に這い寄ってきていた。




