第6話「皇帝の素顔」
城の奥深くにある書物庫は、外の猛吹雪の音を厚い石壁が遮断し、完全な静寂に包まれていた。
壁一面を埋め尽くす巨大な本棚には、古びた革表紙の書物や羊皮紙の巻物が隙間なく収められている。
空気は乾燥しており、古い紙と埃、そして微かなインクの匂いが漂っていた。
アサヒは棚の一つに寄りかかりながら、手に持った古い書物のページをゆっくりとめくっていた。
文字はこの世界の言語で書かれていたが、不思議なことに、アサヒの目には自然と意味が理解できるようになっていた。
これも召喚された際に与えられた能力の一つなのだろう。
書物に書かれているのは、ルシエンの歴史や地理、そして魔法に関する基礎的な知識だった。
自分の持つ力の手がかりがないかと探し続けていたが、これといった成果は得られていない。
ふと、背後の通路から微かな気配を感じた。
足音は聞こえないが、空気がわずかに冷たさを増したことで、誰が来たのかはすぐにわかった。
アサヒが振り返ると、本棚の間の薄暗がりからレオンハルトが姿を現した。
彼はいつものように黒い外套を羽織っていたが、その手には何冊かの重そうな本が抱えられている。
レオンハルトはアサヒの姿を認めると、わずかに歩みを止め、それから静かに近づいてきた。
「読書か」
短く問いかける声は、相変わらず低く冷ややかだったが、以前のような他者を突き放す響きは薄れていた。
「はい、少しでもこの世界のことを知りたいと思いまして」
アサヒは手にした本を閉じ、丁寧に一礼した。
レオンハルトは持っていた本を近くの閲覧用テーブルに無造作に置く。
「無理に知識を詰め込む必要はない。お前は客としてこの城にいるのだから」
「それでも、何もせずにいるのは落ち着かなくて」
アサヒがそう答えると、レオンハルトは微かに眉を動かした。
その表情の変化は非常に小さく、注意深く観察していなければ見逃してしまうほどだった。
「お前は、奇妙な奴だな」
レオンハルトはテーブルの縁に軽く腰掛け、長い脚を交差させた。
「私を恐れないのか」
その唐突な問いかけに、アサヒは瞬きをした。
皇帝としての威厳と、周囲を凍らせるほどの冷たい魔力を持つ彼を恐れる者は多いだろう。
アサヒ自身も、最初は彼の冷徹な態度に怯えていたのは事実だ。
しかし、ルークを撫でる時の優しい手つきや、花に触れようとしてためらった不器用な動作を思い出すと、恐怖という感情はすでに消え去っていた。
「恐れ多くはありますが、怖いとは思いません」
アサヒは真っ直ぐレオンハルトの青い瞳を見つめ返して答えた。
レオンハルトの瞳の奥が、わずかに揺らいだように見えた。
彼は視線をそらし、アサヒの足元で丸まっているルークへと目を向ける。
「他国の者たちは、私を氷の怪物と呼ぶ。感情を持たず、ただ冷酷に支配するだけの存在だと」
その声には、怒りや悲しみといった感情は含まれておらず、ただ淡々と事実を述べているかのようだった。
しかし、アサヒはその冷淡な言葉の裏に、深い孤独の影を感じ取った。
「そうでしょうか」
アサヒは一歩だけレオンハルトに近づいた。
「ルークがこんなにも懐いている方が、感情を持たない怪物だとは、僕には思えません」
アサヒの言葉に、ルークが尻尾を床に叩きつけて同意するように短い鳴き声を上げた。
レオンハルトの唇の端が、ほんのわずかに持ち上がった。
それは間違いなく、不器用な微笑みの形だった。
その微かな表情の変化に、アサヒの心臓がどきりと高く鳴る。
冷徹な仮面の下に隠された、温かく人間らしい一面に触れた気がして、胸の奥がじんわりと熱くなった。
レオンハルトはゆっくりと手を伸ばし、足元にいるルークの頭を撫でる。
その手つきはやはり優しく、ルークを心から慈しんでいることが伝わってくる。
「お前のその力は、雪を溶かすだけではないようだな」
レオンハルトはルークを撫でたまま、静かに口を開いた。
「どういう意味でしょうか」
「お前がこの城に来てから、空気が変わった」
レオンハルトは視線を上げ、アサヒを真っ直ぐに見つめた。
その眼差しには、隠しきれない熱が微かに混じっている。
「永遠に凍りついていると思っていたものが、少しずつ溶け出しているような、そんな気がするのだ」
その言葉が何を意味しているのか、アサヒはすぐには理解できなかった。
しかし、レオンハルトの瞳の奥に見える感情の揺らぎが、アサヒの心にさざ波を立てる。
冷たい石造りの書物庫の中で、二人の間の距離は以前よりも確かに縮まっていた。
レオンハルトが発する冷気は、もはやアサヒを凍えさせるものではなく、心地よい涼しさとなって肌を撫でている。
アサヒの頬は自然と赤く染まり、体温がわずかに上昇するのを感じた。
自分の中に芽生え始めたこの感情の名前を、アサヒはまだ知らない。
ただ、目の前にいる孤独な皇帝の冷たい世界に、もっと深く関わってみたいと、強く願う自分がいることだけは確かだった。
書物庫の静寂の中、二人の視線が絡み合い、言葉のない会話が続く。
外の吹雪の音はもはや聞こえず、ただ微かに聞こえるルークの寝息だけが、二人の静かな時間を満たしていた。




