第4話「氷雪の城」
暗い水底からゆっくりと浮き上がるように、少しずつ周囲の感覚が体に戻ってきた。
重く閉ざされていたまぶたの裏に、淡いオレンジ色の光が揺らめいているのを感じる。
鼻腔をくすぐるのは、乾いた薪が爆ぜる芳ばしい香りと、清潔な麻の布の匂いだった。
凍てつくような雪原の冷気はすっかり消え去り、代わりに柔らかな温もりが全身を包み込んでいる。
アサヒはゆっくりと目を開いた。
視界はまだぼやけていたが、瞬きを繰り返すうちに、高い天井に渡された太い木の梁が焦点の先に結ばれた。
分厚い石で組まれた壁には精緻な彫刻が施されており、その表面を暖炉の炎が赤く照らし出している。
自分が寝かされているのは、ふかふかとした羽毛の詰まった広いベッドの上だった。
上質な生地の掛け布団が肩まで掛けられており、指先を動かすと滑らかな感触が伝わってくる。
雪の中で倒れる直前、限界まで冷え切っていたはずの体は、今は芯まで温まっていた。
首を巡らせると、ベッドの脇に置かれた小さな木製の台の上に、水差しの置かれた銀色の盆が銀光を放っているのが見えた。
部屋の隅に配置された巨大な暖炉の中では、太い薪が赤い火の粉を散らしながら熱を放っている。
その暖炉の前の絨毯の上に、丸まった白い毛玉のようなものが静かに呼吸をしているのに気づいた。
『あの時の子犬……』
アサヒは心の中でつぶやきながら、上体を起こそうと腕に力を込めた。
すると、掛け布団がわずかにずれ、ベッドの軋む微かな音が静寂の部屋に響く。
その音に反応するように、丸まっていた白い生き物がピンと耳を立て、こちらを振り向いた。
透き通るような青い瞳がアサヒを捉える。
それは雪原で助けた、あの小さな生き物だった。
生き物は短い尻尾を振りながら、軽快な足取りでベッドへと近づいてくる。
そして、前足をベッドの縁にかけ、アサヒの顔を覗き込むようにして鼻を鳴らした。
アサヒはそっと手を伸ばし、その純白の毛並みに指を這わせる。
冷たい雪の中で感じた微かな温もりは、今はしっかりとした命の熱を持ってアサヒの手のひらを温めてくれた。
「よかった、君も無事だったんだね」
長らく使っていなかった声はひどく掠れていたが、生き物は嬉しそうにアサヒの指先を舐めた。
その温かくざらりとした感触に、アサヒの頬に自然と安堵の笑みがこぼれる。
その時、部屋の重厚な木の扉が、低い音を立ててゆっくりと開かれた。
廊下から流れ込む冷たい空気が、暖炉の熱気と混ざり合って足元を撫でる。
アサヒは視線を扉の方へと向けた。
そこに立っていたのは、長身で黒衣を身にまとった男だった。
男の髪は新雪のように白く、窓から差し込む青白い月光を浴びて銀糸のように輝いている。
彫りの深い整った顔立ちは氷の彫刻のように冷ややかで、一切の感情を読み取ることができない。
その冷たい印象を決定づけているのは、射抜くような鋭い青い瞳だった。
それはアサヒの手元にいる生き物と同じ色をしていたが、男の瞳には他者を寄せ付けない底知れぬ冷気が宿っているように見える。
男は静かな足取りで部屋の中へと足を踏み入れた。
靴底が石の床を叩く音は一切なく、ただ黒い外套の裾が空気を切る微かな音だけが付き従っている。
「目が覚めたか」
男の声は低く、地下の空洞に響く氷のひび割れのような冷たさを帯びていた。
アサヒは思わず身を固くし、掛け布団の端を強く握りしめる。
男の圧倒的な存在感に気圧され、気の利いた言葉を返すことができなかった。
「ここは、フロスト帝国の城だ」
男はベッドから数歩離れた位置で立ち止まり、アサヒを見下ろしたまま淡々と告げた。
その言葉を聞いて、アサヒの脳裏に自分を追放した第一王子エドワードの冷酷な言葉が蘇る。
氷に閉ざされ、血も涙もない冷酷な皇帝が支配する死の国。
もし目の前にいる男がその皇帝であるならば、自分は再び拒絶され、あの凍てつく雪原へと放り出されるのだろうか。
不安が胸の奥で渦巻き、アサヒの呼吸がわずかに浅くなる。
「倒れていたお前を見つけたのは、彼だ」
男の視線が、アサヒの手元にいる白い生き物へと向けられた。
生き物はアサヒの手から離れると、男の足元へと駆け寄り、その黒いブーツにじゃれつくようにすり寄った。
男は冷たい表情を崩さないまま、ゆっくりと膝をつき、手袋を外した大きな手で生き物の頭を撫でる。
その指先の動きには、外見から受ける冷徹な印象とは裏腹に、驚くほど丁寧で柔らかな気遣いが感じられた。
「彼はこの国の守護神獣、ルークだ」
男の言葉に、アサヒは目を見開いた。
この小さな子犬のような生き物が、国を守る神獣だという事実が信じられなかったからだ。
ルークと呼ばれた生き物は、男の手に頭を擦り付けながら心地よさそうに目を細めている。
「ルークがこれほど他者に懐くのは珍しい」
男は再び立ち上がり、鋭い青い瞳でアサヒの顔を真っ直ぐに射抜いた。
「私はこの国を治める者、レオンハルトだ」
その名を聞いて、アサヒはわずかに肩を震わせた。
やはり、この男がフロスト帝国の皇帝だったのだ。
しかし、彼がルークを撫でる時の手つきの優しさと、冷酷無比と噂される皇帝の姿が、アサヒの中でどうしても結びつかなかった。
「お前は、何故あのような場所で倒れていたのだ」
レオンハルトの問いかけには、尋問するような響きはなかったが、隠し事を許さない強さがあった。
アサヒは乾いた唇を舌で湿らせ、言葉を探す。
自分が異世界から召喚され、偽物の聖女として追放されたという事実を、果たして信じてもらえるのだろうか。
しかし、ルークを助けようとした時の自分の行動を思い出し、嘘をつくことはできないと覚悟を決めた。
「僕は……遠い場所から連れてこられて、そして、いらないと言われて、追い出されたんです」
言葉は途切れ途切れになり、情けないほどに頼りない響きを持っていた。
レオンハルトは何も言わず、ただ静かにアサヒの言葉に耳を傾けている。
「雪の中で、この子が怪我をして倒れているのを見つけて、助けたいと……ただそう思っただけです」
アサヒは俯き、自分の手のひらを見つめた。
あの時、自分から溢れ出した温かい光の感覚が、今でも指先に残っているような気がした。
部屋の中には暖炉の薪が爆ぜる音だけが響き、重苦しい沈黙が降り下りる。
アサヒは次に発せられるであろう拒絶の言葉を待ち受け、体を強張らせていた。
「そうか」
レオンハルトの短く低い声が落ちた。
アサヒが恐る恐る顔を上げると、レオンハルトの表情に変化はなかったが、その眼差しからは先ほどまでの鋭い警戒の色がわずかに和らいでいるように見えた。
「怪我は完全に治癒していた」
レオンハルトはルークの背中に視線を落とす。
「お前のその力は、間違いなくルークを救った」
その言葉には、アサヒを咎める響きは一切含まれていなかった。
むしろ、事実を淡々と認めるような静かな響きがあった。
「体力が回復するまで、この城に滞在することを許可する」
レオンハルトはそれだけを言い残すと、背を向けて扉の方へと歩き出した。
黒い外套の裾が翻り、部屋の空気を静かにかき乱す。
「あ、あの」
アサヒは思わず声を上げた。
「ありがとうございます」
絞り出すように発した感謝の言葉に、レオンハルトは足を止めたが、振り返ることはなかった。
彼はわずかに顎を引き、そのまま部屋を後にしていく。
重い扉が閉ざされ、部屋には再び静寂が戻ってきた。
アサヒは大きく息を吐き出し、ベッドの背もたれに体を預ける。
緊張の糸が切れ、どっと疲労が押し寄せてきた。
ルークが再びベッドに飛び乗り、アサヒの腕の中に丸まって温もりを分け与えてくれる。
冷酷な皇帝の治める死の国。
しかし、アサヒが触れたこの場所の空気は、彼を追放したあの国よりも、はるかに温かく穏やかだった。




