第3話「白銀の出会い」
空を覆っていた厚い雲の隙間から、青白い光が雪原に降り注いでいる。
何日歩き続けたのか、アサヒの感覚はすでに曖昧になっていた。
足を踏み出すたびに、膝まで積もった柔らかな雪が抵抗となって体力を奪っていく。
靴の隙間から入り込んだ雪が体温で溶け、再び凍りついて足先を痺れさせていた。
肌を刺すような風が吹き抜けるたび、薄い外套の裾がばたばたと音を立ててはためく。
肺に吸い込む空気は刃のように冷たく、呼吸をするたびに胸の奥が痛んだ。
真っ白な世界に、音はほとんど存在しない。
風の音と、自分の足が雪をかき分ける鈍い音だけが、終わりのない単調なリズムを刻んでいる。
まつ毛に付着した雪が凍りつき、瞬きをするたびに視界の端で光を反射した。
体力の限界はとうに超えていた。
意識の端が白く霞み始め、膝が崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
その時、雪原のわずかな窪みに、周囲の白とは異なるわずかな陰りを見つけた。
風を避けるように盛り上がった雪の吹き溜まりの影に、小さな何かが丸まっている。
アサヒは凍りついた足を重く引きずりながら、その陰へと近づいていった。
近づくにつれ、それがただの雪の塊ではないことがわかる。
真っ白でふわふわとした毛並みを持つ、子犬のような生き物がそこに倒れていた。
小さな体は微かに上下しており、まだ命の灯火が消えていないことを示している。
しかし、その白い毛皮の横腹には、痛々しく赤い血が滲み、周囲の雪を赤黒く染めていた。
風に乗って、微かな鉄の匂いが鼻をかすめる。
アサヒは膝をつき、かじかんだ素手でそっとその小さな体に触れた。
指先に伝わってきたのは、凍りつくような外気とは対照的な、微かな温もりだった。
生き物の体温を感じた瞬間、アサヒの胸の奥底で、氷が溶けるような静かな衝動が生まれた。
自分自身も凍え死にそうな状況であるというのに、彼の手は迷うことなくその小さな体を抱き上げていた。
両手の中に収まるほどの軽さだった。
目を閉じたまま弱々しい呼吸を繰り返すその生き物を、アサヒは自らの胸元へと引き寄せる。
冷え切った外套越しに、命の鼓動がかすかに伝わってきた。
助けたい。
ただその思いだけが、アサヒの頭の中を占めていた。
すると、彼の胸の奥から熱の塊のようなものが湧き上がり、指先へと流れ込んでいくのを感じた。
それは水晶の判定の時に感じた、果てしない海のような感覚に似ていた。
だが今は、それが静かな波となって、アサヒの手のひらから小さな生き物へと注がれていく。
彼の両手から、淡い金色の光の粒子が立ち上り始めた。
光は雪の反射よりも柔らかく、周囲の冷たい空気をじんわりと温めていく。
光の粒子は血に染まった横腹へと集まり、まるで柔らかな布で包み込むように傷口を覆い隠した。
アサヒの額から汗がにじみ、吐く息がさらに白く濃くなる。
光が薄れていくと、そこにあったはずの痛々しい傷跡は綺麗に塞がっていた。
赤く染まっていた毛並みも、元通りの純白の輝きを取り戻している。
小さな生き物が、ふいにもぞもぞと身じろぎをした。
閉じていたまぶたがゆっくりと持ち上がり、透き通るような青い瞳がアサヒを見上げる。
その瞳には、野生の獣が持つ警戒心は微塵もなく、ただ純粋な好奇心と安心感が宿っていた。
小さな舌が伸びて、アサヒのかじかんだ指先をぺろりと舐める。
ざらりとした温かい感触に、アサヒの唇から自然と吐息がこぼれた。
「よかった」
ひび割れた唇から紡がれた声はかすれていたが、確かな安堵を含んでいた。
生き物は短い鳴き声を上げると、アサヒの冷たい手に顔を擦り寄せてくる。
その温かさに触れていると、アサヒ自身の体も芯から少しだけ温まるような気がした。
だが、安堵したのも束の間、アサヒの視界が不意に大きく揺らいだ。
力を使い果たした反動と、極限まで冷え切った体が限界を訴えていた。
足元の雪が崩れ、アサヒの体は傾く。
最後に見たのは、灰色の空から舞い落ちてくる新しい雪の結晶と、自分を心配そうに見下ろす青い瞳だけだった。
背中に冷たい雪の感触を受けたのを最後に、アサヒの視界は完全な暗闇へと沈み込んでいった。




