エピローグ「春の陽だまり」
季節が何度か巡り、フロスト帝国がかつての死の大地であったという記憶は、人々の間から少しずつ遠い過去の出来事になりつつあった。
城下町の大通りは、色とりどりの布で飾られた露店が軒を連ね、買い物客や商人たちの活気ある声で溢れ返っている。
石畳の上を馬車が通り過ぎるたび、車輪が立てる重い音と馬のいななきが響き、風に乗って焼きたてのパンの香ばしい匂いや、スパイスの効いた串焼きの肉の匂いが漂ってくる。
その喧騒の中を、アサヒとレオンハルトは並んで歩いていた。
レオンハルトは目立つ銀髪をすっぽりと灰色のフードで隠し、上等だが装飾の少ない外套を羽織ることで身分を偽っていた。
アサヒもまた、農村の青年が着るような素朴な麻の服を着込んでいる。
しかし、レオンハルトの隠しきれない長身と洗練された歩み、そしてアサヒから自然とあふれ出る清らかな空気は、道行く人々の視線を無意識のうちに惹きつけていた。
それでも、彼らが自分たちの敬愛する皇帝とその伴侶であると気づく者はほとんどいなかった。
アサヒは露店に並べられた見慣れない果実や、繊細な細工が施された木彫りの置物を興味深そうに覗き込んでいた。
店主の陽気な呼び込みの声に応えながら、アサヒが振り返ると、数歩後ろを歩いていたレオンハルトが優しい眼差しでこちらを見つめている。
その視線が交差するたび、アサヒの胸の奥は甘い熱で満たされていく。
二人は自然な動作で互いの手を握り合い、指と指を深く絡ませた。
レオンハルトの手のひらの少し硬い感触と、指先から伝わる微かな体温が、アサヒに深い安心感を与えてくれる。
広場に出ると、中央にある巨大な噴水の周りで、子供たちが追いかけっこをして遊んでいた。
水しぶきが陽光を反射して虹を作り出し、子供たちの甲高い笑い声が水音に混じって空へ吸い込まれていく。
アサヒたちは噴水の水しぶきが届かない木陰のベンチに腰を下ろした。
風が枝葉を揺らし、木漏れ日が二人の足元で複雑な模様を描いては形を変えていく。
露店で買った甘い蜜をかけた焼き菓子を二人で分け合いながら、アサヒは目の前の平和な光景から目を離せずにいた。
かつて、自分を偽物だと断罪し、冷たい雪の中へ追放したあの国での出来事が、今では前世の記憶のように遠く感じられる。
恐怖や絶望の感情はとうの昔に消え去り、そこにあるのはただ、今自分がこの場所にいられることへの深い感謝だけだった。
隣に座るレオンハルトがフードを少しだけ深く被り直し、アサヒの肩に自分の肩を寄せてきた。
彼の大きな体が触れる部分から、心地よい重みと熱が伝わってくる。
「楽しいか」
耳元に落ちた低い声は、街の喧騒を遮断してアサヒの鼓膜にだけ届くように囁かれた。
アサヒは焼き菓子の最後の一口を飲み込み、レオンハルトを見上げて深く頷いた。
「はい。皆が笑って暮らしているのを見ると、本当にここに来てよかったと思います」
その言葉に嘘はなかった。
自分の力がこの国の役に立ち、そして何よりも、目の前の愛する人の孤独を終わらせることができたのだから。
レオンハルトの空いた手がアサヒの背中に回り、ゆっくりとその細い体を自分の方へと引き寄せた。
周囲に人がいることも構わず、レオンハルトの唇がアサヒの額にそっと落とされる。
触れた部分から広がる熱に、アサヒの頬が赤く染まった。
「私が最も感謝しているのは、お前が私の手を取ってくれたことだ」
レオンハルトの青い瞳が、真剣な光を帯びてアサヒの黒い瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「お前がいなければ、この街の景色も、私にとっては何の意味も持たない空っぽのままだっただろう」
その言葉の重みに、アサヒは胸がいっぱいになった。
互いに欠けていた部分を埋め合わせるように出会い、傷を癒やし合い、そして愛を育んできた。
そのすべてが奇跡であり、同時に必然であったのだと、今ならはっきりとわかる。
西の空がオレンジ色から深い赤へと沈み始め、街の家々に一つ、また一つと温かな明かりが灯り始めた。
冷え込み始めた夕暮れの風が、二人の間を吹き抜けていく。
しかし、固く繋がれた手と手からは、外気の冷たさを寄せ付けないほどの確かな熱が互いに流れ込んでいた。
城へと続く坂道を登り始めると、遠くの城壁の上で、主の帰りを待ちわびるルークの遠吠えが小さく聞こえてきた。
それはかつての恐ろしい魔物の声ではなく、家族を呼ぶ温かな響きを持っていた。
アサヒはレオンハルトの歩幅に合わせながら、彼の手をもう一度強く握り返した。
振り返る過去はもう何もない。
あるのはただ、愛する人と共に歩む、永遠に続く春の陽だまりのような未来だけだった。




