番外編「銀狼のまどろみ」
湿った土の匂いと、日差しをたっぷり吸い込んだ草の匂いが、黒い鼻先を心地よくくすぐっていた。
ルークは前足を綺麗に揃えてその上に顎を乗せ、半分閉じた瞳で目の前の光景を静かに見つめていた。
柔らかな緑の芝生は体温を程よく保ち、時折吹き抜ける微風が背中の白い毛並みを優しく撫でていく。
彼の耳は、風が木々の葉を揺らす微かな摩擦音や、遠くで蜜蜂が羽音を立てて飛び回る音を正確に拾い上げていた。
神獣としての鋭敏な感覚を持つ彼にとって、世界は常に情報に満ち溢れている。
しかし、かつてのこの城は違った。
分厚い氷に覆われ、すべてが凍りついていた時代、空気には何の匂いも存在しなかった。
聞こえるのは狂ったように吹き荒れる吹雪の音と、氷が軋む無機質な音だけ。
主であるレオンハルトの足音すら、冷たい石の床に吸い込まれて消えてしまうほど、城全体が深い静寂と孤独に沈み込んでいたのだ。
それが今ではどうだろうか。
ルークの視線の先には、白いシャツの袖をまくり上げ、土にまみれて花壇の手入れをするアサヒの姿があった。
彼の指先が湿った土に触れるたび、そこから目に見えないほどの微細な光の粒子が土壌へと溶け込んでいく。
その光は土を温め、植物の根に活力を与え、周囲の空気を清浄なものへと変えていくのだ。
ルークはその光の波長を肌で感じ取るのが好きだった。
それは春の陽射しよりも柔らかく、体の芯から安らぎを与えてくれる。
アサヒがこちらを振り返り、土のついた手を振りながら微笑みかけてきた。
その顔を見た瞬間、ルークの短い尻尾が自然と左右に揺れる。
立ち上がり、四つの足で柔らかな芝生を蹴ってアサヒの元へと駆け寄った。
足の裏から伝わる草の感触が心地よく、ルークはアサヒの膝元に転がり込んで腹を見せた。
アサヒの温かい手が、ルークの首筋からお腹にかけてをゆっくりと撫でていく。
指先が毛皮の奥の皮膚に触れ、そこから伝わる穏やかな体温に、ルークは喉の奥を鳴らして目を細めた。
かつて雪原で倒れ、死の淵をさまよっていた時に感じた、あの温かく優しい光の感覚。
あの時から、ルークにとってアサヒは守るべき存在であり、同時に無条件で甘えることができる特別な存在となっていた。
しばらくそうしていると、回廊の方から静かな足音が近づいてくるのを耳が捉えた。
足音の主が誰であるか、ルークは目を見なくても匂いだけで完全に把握していた。
かつては近寄るだけで周囲の空気を凍らせるような鋭い冷気をまとっていたその匂いは、今では大きく変化している。
深い森の奥にある静かな湖畔のような、澄み切って落ち着いた香りに、微かな日向の匂いが混じっているのだ。
レオンハルトが近づいてくると、アサヒの心臓の鼓動がわずかに速くなるのをルークの耳は逃さなかった。
二人の間には、言葉を交わさなくとも通じ合う、濃密で温かな空気が常に流れている。
レオンハルトはアサヒの隣に腰を下ろし、土で汚れたアサヒの手を自分の大きな手で包み込んだ。
革の手袋越しではない、素肌同士の触れ合い。
レオンハルトの低い声が、アサヒを気遣う言葉を紡ぐ。
アサヒがそれに答える声には、隠しきれないほどの甘い愛情が滲み出ている。
ルークは二人の会話を子守唄のように聞きながら、レオンハルトの長い脚に頭を擦り付けた。
レオンハルトの空いた手が伸びてきて、ルークの耳の裏を力強く、それでいて優しく掻いてくれる。
アサヒの柔らかな撫で方とは違う、主としての確かな愛情の形。
二つの異なる手の温もりに挟まれ、ルークは深い安心感に包まれていった。
神獣としての長い寿命の中で、これほどまでに満ち足りた時間を過ごしたことはかつてなかった。
強大な魔力で外敵を退けることも神獣の役目だが、こうして平和な庭で愛する者たちの傍らでまどろむこともまた、自分に与えられた大切な役割なのだとルークは思っている。
風が花の香りを運び、木陰の涼しさが三人の周囲を優しく包み込む。
アサヒがレオンハルトの肩に頭を預け、二人の呼吸のリズムが次第に重なり合っていく。
その穏やかな時の流れの中で、ルークは再び瞳を閉じ、夢の世界へとゆっくりと沈んでいった。
夢の中で見る景色もまた、この庭と同じように花が咲き乱れ、温かな光に満ちた永遠の春の景色だった。




