第11話「溶けゆく呪縛」
遠ざかる馬の蹄の音が完全に聞こえなくなると、中庭を支配していた極寒の空気が嘘のように和らいでいった。
石畳を覆っていた分厚い氷の膜が、音もなく透明な水滴へと姿を変えていく。
太陽の光が再び庭園全体に降り注ぎ、濡れた石の表面が乱反射してきらきらと輝き始めた。
ルークの巨大な銀色の体から、淡い光の粒子がふわりと立ち上った。
光が収まると、そこには元のふわふわとした子犬のような姿に戻ったルークが座っていた。
ルークは短く高い声で鳴きながら、アサヒの足元へと駆け寄り、その柔らかな体をブーツに擦り付けた。
アサヒはゆっくりと膝をつき、ルークの温かな背中を手のひらで優しく撫でた。
指先から伝わってくる確かな命の鼓動が、張り詰めていたアサヒの神経を静かに解きほぐしていった。
頭上から、衣擦れの微かな音が降ってきた。
見上げると、冷気を完全に収めたレオンハルトが、静かな瞳でこちらを見下ろしていた。
彼の青い瞳には、先ほどの怒りに満ちた鋭い光はなく、ただ深く穏やかな海のような優しさが満ちていた。
レオンハルトはアサヒの目の前で膝をつき、視線の高さを合わせた。
少しだけ荒くなった彼の呼吸が、静まり返った空気に微かなリズムを刻んでいる。
「怖かったか」
低くかすれた声が、アサヒの鼓膜を優しく震わせた。
アサヒはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、ちっとも怖くありませんでした」
アサヒの口からこぼれた言葉には、一切の強がりは混じっていなかった。
レオンハルトが前に立ち塞がってくれた瞬間、アサヒの心からはすべての不安が消え去っていたのだ。
レオンハルトは革の手袋を外し、素手でアサヒの頬にそっと触れた。
少しだけざらつきのある大きな指先が、アサヒの冷えた肌に心地よい熱を伝えてくる。
その温もりに触れた途端、アサヒの胸の奥でせき止められていた感情の塊が、音を立てて崩れ落ちた。
偽物と罵られた日の冷たい床の感触や、孤独に歩き続けた雪原の痛みが、もはや遠い過去のものとして完全に切り離されたのだ。
アサヒの瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、深い安堵と解放感からくる温かな雫だった。
涙はレオンハルトの指先を濡らし、彼の親指がその軌跡を優しく拭い去った。
レオンハルトの長い腕がアサヒの背中に回り、力強く、それでいて壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。
アサヒの鼻先がレオンハルトの白いシャツに触れ、彼特有の清潔な香りと、かすかな雪の匂いが肺いっぱいに広がった。
耳を澄ませば、レオンハルトの厚い胸板越しに、力強く規則的な心音の響きが聞こえてくる。
アサヒは両腕を背中に回し、その温かな背中の布地をきつく握りしめた。
声を上げて泣きじゃくるアサヒの髪を、レオンハルトの大きな手が何度も何度も撫でる。
「もう二度と、誰にもお前を傷つけさせはしない」
頭上から降ってくる低い声には、揺るぎない誓いが込められていた。
その言葉の重みが、アサヒの心に開いていた小さな傷跡を完全に塞いでいくのを感じた。
後日、城に届けられた報告によれば、エドワードの治めていた国は完全に瘴気に呑み込まれ、国としての機能を失ったという。
浄化の力を持たない偽物の青年は逃亡し、エドワードたち王族も民衆の怒りを買って国を追われたらしい。
その話を聞いた時、アサヒの心には何の感慨も湧かなかった。
彼らは自らの傲慢さが招いた結果を刈り取っただけであり、アサヒが関与すべき世界はもうそこには存在しなかったからだ。
今のアサヒの目の前には、永遠に続くかと思われるほど穏やかで美しい春の景色が広がっている。
涙が枯れるまでレオンハルトの腕の中に収まっていたアサヒは、ゆっくりと顔を上げた。
泣き腫らした赤い目元を見たレオンハルトが、わずかに口元を緩めて不器用な微笑みを浮かべる。
その笑顔を見た瞬間、アサヒの心に、これまで感じたことのないほど強く甘い感情が満ち溢れていった。




