第10話「愚者の逃走」
銀色の巨躯が太陽の光を完全に遮り、冷たく巨大な影が石畳の上に濃く落ちた。
先ほどまでアサヒの足元で無邪気にじゃれついていた愛らしい姿は完全に消え去り、そこには神話の中から抜け出してきたような白銀の狼がそびえ立っていた。
太く強靭な四肢が大地を踏みしめるたび、微かな振動が足の裏から石畳を伝わって響いてきた。
ルークの全身を覆う銀色の毛皮は、一本一本が鋭い光を放ち、周囲の空気を震わせていた。
黄金色に輝く双眸は、眼下にすくみ上がるエドワードの姿を冷徹に射抜いていた。
大きく開かれた顎の奥には、氷の刃のように鋭い牙が立ち並び、その隙間から白い息が漏れ出ていた。
低い唸り声がルークの喉の奥で鳴動し、それは大気を伝わって直接内臓を揺さぶるような重圧を持っていた。
エドワードの顔から急速に血の気が引き、青白い土気色へと変わっていった。
彼は大きく目を見開いたまま、震える唇から声にならない空気を細く吐き出していた。
立派な装飾の施された剣の柄に置かれた手はひどく痙攣し、もはや引き抜く力すら残っていないことは明らかだった。
エドワードの背後に控えていた兵士たちも、神獣が放つ濃密な死の気配に完全に呑み込まれていた。
彼らの足は石畳に縫い付けられたように動かず、ただ恐怖に見開かれた眼球だけが激しく揺れ動いていた。
金属製の鎧が小刻みに擦れ合う音だけが、不気味なほど静まり返った空間に響いていた。
レオンハルトが一歩前に踏み出すと、彼の足元から白い冷気が波紋のように広がっていった。
春の陽気に包まれていたはずの中庭の空気が、一瞬にして凍てつくような冬の嵐へと変貌した。
石畳の表面に薄い氷の膜が張り、ピシリという鋭い音を立てて霜の模様が拡大していく。
それはエドワードの足元へと容赦なく迫り、彼の履いている革のブーツを真っ白に染め上げた。
エドワードは悲鳴にならないかすれた音を喉から漏らし、無様に尻餅をついた。
泥と煤で汚れていた彼の外套が、冷たい氷の上に広がり、さらに惨めな姿を晒した。
彼は後ずさろうと手足をばたつかせたが、凍りついた石畳の上では滑るばかりで前に進むことができなかった。
レオンハルトの放つ冷気は、エドワードたちだけに向けられており、背後に立つアサヒには春の温かな風しか届いていなかった。
その緻密な魔力の制御に、アサヒはレオンハルトの内に秘められた深い愛情と確かな庇護を感じ取っていた。
氷の刃をまとった風がエドワードの頬をかすめ、彼の金色の髪を乱暴に揺らした。
「ひぃっ」
エドワードの喉から、ようやく情けない悲鳴が形となって漏れ出た。
その声を合図にしたかのように、背後にいた兵士たちの恐怖が限界に達した。
彼らは手すりのついた重い槍や剣を次々と石畳に投げ捨て、背を向けて一目散に駆け出した。
武器が氷にぶつかって立てる甲高い金属音が、逃げ惑う足音に混じって不協和音を奏でていた。
エドワードは逃げ出す部下たちを呼び止めようと口を開いたが、恐怖で喉が引きつり、言葉を発することができなかった。
彼は這いつくばるようにして自分が乗ってきた白馬の方へと手を伸ばした。
白馬もまた神獣の放つ威圧感に怯え、手綱を振り解いて暴れ回っていた。
エドワードは必死の形相で手綱にすがりつき、鐙に足をかけようと何度も滑り落ちた。
そのたびに高価な衣服が破れ、彼の尊大だった態度は見る影もなく崩れ去っていた。
やっとのことで鞍に這い上がったエドワードは、こちらを振り返ることもなく、馬の腹を激しく蹴り上げた。
蹄が氷を蹴立てるけたたましい音が遠ざかり、やがて正門の向こう側へと姿を消していった。
彼らが持ち込んだ泥の臭いと不吉な瘴気の気配は、レオンハルトの放った清浄な冷気によって完全に浄化されていた。
アサヒはその後ろ姿を、ただ静かに見つめていた。
かつて自分を絶望の淵に突き落とした男は、もはや恐怖の対象ではなく、ただの哀れな敗北者でしかなかった。
胸の奥にこびりついていた黒い靄のようなトラウマが、春の陽射しに溶ける雪のように消え去っていくのを感じた。
自分の居場所はあの冷たい国ではなく、今自分が立っているこの場所なのだという確信が、アサヒの全身を温かく満たしていった。
深く息を吸い込むと、肺を満たしたのは再び甘く優しい花の香りだった。




