第1話「光の届かない場所」
登場人物紹介
◆アサヒ
現代日本から異世界ルシエンに召喚された青年。
黒髪に黒い瞳を持つ。
穏やかで心優しい性格。
規格外の神聖力を秘めているが、魔力測定器が機能しなかったため偽物扱いされ、雪国へと追放された。
動物が好きで、特に神獣ルークには甘い。
◆レオンハルト
極寒の地フロスト帝国の若き皇帝。
銀糸のような髪と氷のような青い瞳を持つ。
冷酷無比な氷の魔法使いとして他国から恐れられているが、実際は口下手で不器用なだけ。
動物を深く愛しており、アサヒの温かな性質に次第に心を開いていく。
◆ルーク
フロスト帝国の守護神獣。
普段は真っ白でふわふわな子犬のような姿をしているが、戦闘時や主の危機には巨大な銀狼へと姿を変える。
雪の中で倒れていたところをアサヒに助けられ、以降アサヒにべったりと懐いている。
◆エドワード
第一王子。
アサヒを召喚し、偽物と決めつけて追放した愚かな王太子。
見栄っ張りで自己中心的な性格。
本物の聖女の力を見抜けず、後に国を瘴気で滅ぼす原因を作ることになる。
視界が不意に白く染まり、足元の床が抜け落ちるような感覚に襲われた。
風の唸る音と、耳の奥で弾けるような高い音が交錯する。
目を閉じてもまぶたの裏に焼き付くほどの強い光が収まると、肌に触れる空気の温度が急激に下がったのを感じた。
冷たく澄んだ空気が肺に流れ込み、鼻腔の奥に古い石と香を焚いたような微かな匂いが広がる。
目を開けたアサヒの視界に飛び込んできたのは、見慣れた日本の風景ではなく、見上げるほど高い天井を支える巨大な石柱の連なりだった。
滑らかに磨き上げられた石の床は、かすかな足音すらも反射して空間全体に響かせる。
ステンドグラスから差し込む色とりどりの光が、床に複雑な模様を描き出していた。
アサヒの隣には、彼と同じように戸惑いの表情を浮かべた青年が立っている。
その向こう側には、豪華な衣装を身にまとった人々が半円状に並び、値踏みするような視線をこちらへ向けていた。
絹の擦れる微かな音が、静寂の空間に波紋のように広がる。
彼らの中心に立つのは、金糸を織り込んだ重厚な外套を羽織った若い男だった。
整った顔立ちには冷ややかな自信が張り付いており、薄い唇は面白がるように歪んでいる。
彼の頭上には細工の細かい王冠が輝き、周囲の者たちが彼を畏怖の目で見つめていることから、彼がこの場を支配する地位にあることは明らかだった。
「よくぞ参った、異界の者たちよ」
男の声は低く、石造りの空間によく通った。
第一王子エドワードと名乗ったその男は、顎をわずかに上げてアサヒたちを見下ろす。
彼らの国では、神の啓示によって数世代に一度、世界を覆う瘴気を浄化する聖女が召喚されるのだという。
「さあ、どちらが真の救世主であるか、その水晶が導き出すだろう」
エドワードの視線の先には、大理石の台座の上に置かれた透明な球体が鎮座していた。
それは人間の頭ほどもある大きさで、内部に微細な気泡のようなものが揺らめいている。
まずは隣にいた青年が、促されるままに台座へと歩み寄った。
彼の指先が水晶の表面に触れた瞬間、空間の温度がわずかに上がったかのような錯覚を覚える。
水晶の中心から金色の光が生まれ、それは瞬く間に球体全体を満たして周囲の壁を淡く照らし出した。
光は温かく、春の陽射しを思わせるような柔らかさを持っていた。
周囲を取り囲む貴族たちから、感嘆の吐息が漏れる。
「おお、これほどの光を放つとは」
「やはり彼が本物に違いない」
エドワードの目にも満足げな色が浮かび、彼は青年に向かってゆったりと頷いてみせた。
青年はほっとしたように肩の力を抜き、案内されるままにエドワードの傍へと移動する。
残されたアサヒに、無数の視線が突き刺さった。
期待の色は薄れ、単なる確認作業を見届けるような冷たさが混じっている。
アサヒは静かに息を吸い込み、磨き上げられた床を踏みしめて台座へと向かった。
靴音が冷たい石に反響し、自らの鼓動が耳の奥で高く鳴るのを感じる。
水晶の前に立つと、その表面は鏡のようにアサヒの黒い瞳を映し出していた。
右手をゆっくりと持ち上げ、冷たいガラスのような質感にそっと手のひらを当てる。
指先から伝わるのは、氷のような冷たさだった。
何も起こらない。
先ほどの青年が放ったような温かな光も、微かな色の変化すらも現れない。
ただ、透明な球体がそこにあるだけだった。
いや、変化は確かに起きていた。
アサヒの掌が触れている部分から、インクを一滴垂らしたように、どす黒い靄のようなものが水晶の内部に広がり始めたのだ。
それは光を放つのではなく、周囲の光を吸い込むような深い闇だった。
透明だった水晶は瞬く間に黒く染まり、石のように濁りきってしまった。
空間を支配していた空気が、一瞬にして凍りつく。
貴族たちの顔から血の気が引き、誰かが引き攣ったような息を呑む音が静寂を引き裂いた。
「なんだ、それは」
エドワードの声には、先ほどの余裕は欠片もなく、嫌悪と侮蔑が色濃く混じっていた。
「光を放つどころか、水晶を穢すとは」
アサヒは手のひらを水晶から離した。
しかし、球体の黒濁は晴れることなく、まるで不吉な石ころのように台座の上に居座っている。
アサヒ自身にも何が起きたのか理解できなかった。
自分の中に何か淀んだものがあるとは感じていない。
むしろ、水晶に触れた瞬間、果てしなく広がる海に一滴の水を落としたような、容量の底が見えない感覚があった。
だが、その感覚を言語化して伝えるすべを、今の彼は持っていなかった。
「偽物め」
エドワードの吐き捨てるような言葉が、冷たい床に落ちて響く。
「神聖なる儀式を汚した罪、本来なら命で償うべきだが、我らの慈悲により命だけは助けてやろう」
周囲の者たちの視線は、もはや汚物を見るようなものへと変わっていた。
ささやき声が波のように広がり、アサヒを孤立させていく。
壁の松明が立てる微かな燃焼音と、衣擦れの音だけが、彼を拒絶するこの世界を形作っていた。
アサヒは何も言わず、ただ自分の手のひらを見つめた。
そこに残る冷たさだけが、今起きている現実を彼に突きつけていた。




