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第六章 ウェスタリアの日々

 ウェスタリアでの生活が始まった。


 ラングレー侯爵家の屋敷は、王宮と比べれば格段に小さかった。

 でも、それがよかった。


 王宮には「役割として存在する場所」という空気があった。

 どの部屋も廊下も、常に誰かの目線と誰かの思惑が交差していた。


 ここにはそれがない。


 少なくとも、私とお母様にとっては。


 お母様は屋敷に戻ってから、別人のように生き生きとしてきた。

 庭で花を育てたり、台所の者たちと一緒に料理を作ったり、

 子供の頃に乗っていた馬に会いに行ったり。


 植物が適した土に植え替えられたようだ、と私は思った。


 祖父は毎朝早くに起き出して農地を見回り、昼に書類仕事をして、

 夕方に剣の稽古をする(六十五歳でまだやっているのが、この人らしい)。

 夕食はいつも家族四人で食べた。


 最初の数日、祖父はあまり口を開かなかった。


 でも五日目くらいから、少しずつ変わってきた。


 「セレス、お前はパンをちぎって食べるのか」


 「え? ええ、こうするほうが食べやすいので」


 「ほう」


 「変ですか?」


 「……いや。俺もそうする」


 なぜかちょっとうれしそうな顔をされた。

 共通点を見つけて喜んでいるのか、と思ったらなんとなく笑えてきた。


 (心の中だけで笑う。口に出すと怒られそうだ)


 祖母は食事中もよくしゃべった。

 話題は多岐にわたり、政治から料理から昔の冒険談まで何でも出てくる。

 祖父がぼそぼそと返し、それに祖母が突っ込み、お母様がくすくす笑う。


 この食卓が、あたしはとても好きだった。


 静かで、温かくて、誰も誰かを傷つけようとしていない場所。


 前世でも、これに似たものが欲しかったな、と思う。




◆◆◆




 屋敷に来て三日目から、私は書庫に入り浸り始めた。


 ラングレー家の書庫は思いの外充実していた。

 歴史書、地理書、農業論文、古いウェスタリア語で書かれた文書、

 そして魔法に関する学術書。


 私はまず地理の本を探した。


 ウェスタリアのこと、ヴェルタ山脈のことを詳しく知りたかったからだ。


 峠から見た、あの山脈の白い峰々が、頭から離れなかった。


 見つけた地理書によると、ヴェルタ山脈はウェスタリア盆地の西端から

 南北に連なる大山脈で、最高峰は雲を突き抜けるほどの高さがあるという。

 険峻な地形に加え、山脈内部には「魔獣」と呼ばれる危険な生物が多数生息しており、

 一般の人間が立ち入ることはほぼない。


 ただし——というくだりが続いた。


 山脈の中腹から上には「亜人」と呼ばれる種族が暮らしており、

 彼らは人間社会と距離を置くが、敵対しているわけではない。

 かつてはウェスタリア公国の時代に、亜人と人間が交易をしていた記録もある、とあった。


 そして——山脈を越えた先について、別の本にはこう書いてあった。


 「大陸の西、ヴェルタ山脈の向こうには魔族の領域が広がる。

 人間と魔族は、遥か昔に大戦争を経験した。

 その戦いは双方に甚大な被害をもたらし、終結後に不干渉の慣習が生まれた。

 それ以来、人間と魔族が接触した記録は、ほぼ存在しない」


 ……魔族。


 前世のファンタジー作品で何度も見た言葉だが、この世界には本当にいるらしい。


 魔法に優れる、と書いてあった。


 人間と魔族の大戦争——それはいつの話なのかと、私は別の本を探した。


 「大戦」と呼ばれるその戦いは、三百年以上前のことらしい。

 魔族側から侵攻があったのか、それとも人間側が先に手を出したのか、

 どちらが先だったかは書かれていなかった。

 ただ、「山脈を挟んで双方が撤退し、その後交流がない」という事実だけが残っている。


 私は本を閉じ、窓から遠くに見えるヴェルタ山脈の白い峰を眺めた。


 あの向こうに、魔族が住んでいる。


 ……まあ、関係ないか。あたしは面倒事を避けて生きる主義だし、

 山に入るつもりも、魔族と会うつもりもない。


 そう思っていた。


 その時は。




◆◆◆




 屋敷に戻って一週間後、祖母の「おしゃべり部屋」へ行くと、

 見知らぬ老人が椅子に座っていた。


 五十代後半くらい。白いひげを短く整え、丸いレンズの眼鏡をかけている。

 なんとなく「村の薬剤師さん」みたいな外見だ。


 「これがイザークだよ」


 祖母が紹介した。


 「はじめまして。イザーク・ヴォルフです」


 老人が立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


 「セレスです。よろしくお願いします」


 「エリスから話は聞いていますよ。たのしみにしていました」


 「私のことを、何を?」


 「魔力の話を少し。詳しくは、あなたが話してくれれば」


 私は祖母を見た。


 「どこまで話したんですか?」


 「大まかにね。底が見えない、と言ったら、イザークが目を丸くしたよ」


 イザーク先生は穏やかに笑った。


 「実は、底なし、というのは理論上は存在し得ます。

 でも実際に見たことがある人間は、大陸中を探してもほとんどいないでしょう。

 私も文献でしか知らなかった」


 「……そんなに珍しいんですか」


 「魔力量というのは基本的に、血筋と生まれつきの素質で決まります。

 突出して多い人間は稀にいる。しかし、底がないというのはまた別の次元です」


 先生はわずかに表情を引き締めた。


 「理論的に言えば、底なしの魔力を持つ人間は——

 制御を誤ると、大陸の地形を変えるほどの力を出す可能性があります」


 静かな言葉だった。


 私はしばらく、それを受け止めていた。


 「……だから、制御が大事なんですね」


 「そうです。それが今日から学ぶことです」


 「……よろしくお願いします」


 先生が頷いた。


 祖母がお茶を三人分注ぎながら、さらりと言った。


 「あと、セレス。一つ教えとくと」


 「はい」


 「あんたの制御技術、独学にしては驚くほど精度が高い。

 イザークも驚いてたよ、話を聞いて」


 「……そうですか?」


 「ただし」


 先生が続けた。


 「独学の制御には、どうしても癖が生まれます。

 その癖を今のうちに直しておかないと、後で大きな力を使う際に

 制御が破綻する危険があります」


 「……わかりました」


 「急ぎましょう。状況が変わる前に、基礎を固める必要があります」


 先生の最後の言葉が、少し気になった。


 「状況、とは?」


 先生と祖母が、一瞬目を合わせた。


 「……王都のことを、少し聞いていますよ。

 国王陛下が倒れたこと、二人の王子の動きが活発になっていること」


 私は頷いた。


 「知っています。そのことも、備えが必要だと思っています」


 「では」


 先生が眼鏡を押し上げた。


 「授業を始めましょうか」


 こうして、あたしの本格的な魔法訓練が始まった。


 面倒事を避けたいOLの精神が、よりによって「底なし魔力の制御訓練」という

 真逆の方向に進んでいくことについて、私は少し複雑な気持ちだったが——


 まあ、必要なことは仕方ない。


 前世でも残業は嫌いだったが、必要な時はやっていたのだ。あたしは。


 それと同じだ、たぶん。



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