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第四章 帰還

 全てが変わったのは、私が十歳になった春のことだ。


 国王陛下が病に倒れた。


 最初は「少し体調が優れない」という話だった。

 しかし日ごとに悪化し、床から起き上がれなくなり、

 やがて謁見も会議もできなくなった。


 王宮は静かに、しかし確実に、変化した。


 第一王子レオナルド派と第二王子クロード派が、それぞれ動き始めた。

 家臣たちの顔色が変わり、廊下の会話が少なくなり、

 誰もが誰かを探るような目をするようになった。


 その空気を肌で感じながら、私はただ一つのことを考えていた。


 今こそ、帰るチャンスだ。


 後継者争いが激化するなら、側室とその娘は王宮の外に出したほうが

 王子たちも動きやすい。

 あたしたちはどちらの陣営でもなく、ただ「国王の側室と庶子」でしかない。

 いるよりいないほうが、邪魔にならない。


 こういう計算を、私はしていた。


 十歳の令嬢としては少々冷たい考え方かもしれない。

 でも前世で二十八年生きた記憶がある私にとっては、これが現実的な判断だ。

 組織が揺らいでいるとき、弱い立場の者は巻き込まれる前に退くべき。

 これはどの世界でも変わらない法則だと思う。


 私はお母様にそっと打ち明けた。


 「お母様、もうすぐ私たちはこの王宮を去ることになると思います」


 お母様は長い間、窓の外を見ていた。


 「……そうね、きっとそうなるわね」


 悲しいのか、安堵しているのか、両方なのか、私には判断できなかった。


 「ウェスタリアへ戻れますよ」


 「ええ」


 お母様は微笑んだ。今度は、目にも笑みがあった。


 「お父様(ローガン侯爵)が待っているわね」


 「きっと怒っています。こんなに長く帰らなかったから」


 「あの人は怒った顔で待っているの。昔から」


 二人で少し笑った。


 静かで、穏やかで、久しぶりに心の底から出てきたような笑いだった。




◆◆◆




 予想通り、数日後に沙汰が下った。


 王妃様からの通達——「陛下の療養中は、側室と庶子は実家に帰っていてよい」。


 丁寧な言い方だが、意味するところは「帰れ」だということは誰もが理解していた。


 私は「よし」と思った。


 準備は急ぎで行われた。侍女二名と護衛騎士四名を連れて、出立する。


 出発の朝、見送りに来た人間はほとんどいなかった。まあ、そういうものだろう。


 ただ、廊下の角に一人だけ、私たちを見ている人がいた。


 クロード殿下だ。


 壁に寄りかかり、腕を組んで、なんとも言えない顔で私たちを見ていた。

 声をかけるでもなく、ただ見ていた。


 私はお母様の少し後ろを歩きながら、一瞬その目と視線が合った。


 怒りとも悲しみとも違う、何かを言おうとして言えなかった、そんな顔だった。


 こちらから声をかけることはしなかった。


 私はそのまま馬車に乗り込み、王宮の門をくぐった。


 重い門が閉まる音を聞きながら、私はひっそりと息を吐いた。


 七年間、お疲れ様でした、あたし。




◆◆◆




 ウェスタリアへの旅は、馬車で十日ほどかかった。


 最初の二日は王都近郊の平野を抜け、そこから少しずつ景色が変わっていく。

 針葉樹が増え、空が広くなり、風に乗ってくる草の匂いが変わる。


 四日目に峠を越えた。

 峠の上から見下ろすと、西側に広がる盆地と、その向こうの深い緑の森が見えた。

 そしてさらに遠く——遥か西の地平線に、白い峰々の連なりが見えた。


 ヴェルタ山脈だ。


 初めて見たその時、私の心に小さな火がついた気がした。


 なぜかはわからなかった。ただ、あの山が、気になった。


 「ウェスタリアよ」


 お母様が静かに言った。その声に、故郷の匂いを吸い込んだような色がこもっていた。


 七日目に、ラングレー侯爵領の町に入った。


 石造りの家が並ぶ静かな町。市場に商人が並び、子供が走り回っている。

 王都と比べれば素朴で規模も小さい。でも、どこか生き生きとした空気があった。


 そして十日目の夕方、屋敷の門が見えた。


 重厚な石造りの門。その前に、二人の人間が立っていた。


 一人は白髪の老人。がっしりとした体格で、深いしわと白くて太い眉。

 「頑固そう」という言葉をそのまま人間にしたような外見だ。


 ローガン・ラングレー侯爵。私の祖父だ。


 そしてその隣に——


 白髪混じりの銀髪を緩くまとめた、小柄な老婦人が立っていた。

 翠の瞳は鋭く、でも口元には笑みの気配がある。

 年齢を感じさせない、不思議な佇まいだった。


 エリス・ラングレー。私の祖母だ。


 馬車が止まり、私が先に降りた。


 七年ぶりだ。私が三歳の頃にここを離れたから、記憶はほとんどない。


 祖父が一歩前に出て、私を見た。


 ごつごつとした大きな手が伸びてきて、私の頭をそっと撫でた。


 「でかくなったな」


 ただそれだけだった。


 お母様が馬車から降りると、祖父は一度だけ唇を引き結んで、それから言った。


 「帰ってきたか」


 「ただいま戻りました、お父様」


 「……ご苦労だった」


 それだけ言って、くるっと背を向けて屋敷の中に歩いていった。


 この人、絶対に泣きそうなの隠してる、と私は思った。

 感情を出すのが苦手な、でも根は優しい人間というのは、こういう背中をするのだ。


 そしてその間——祖母エリスは、ずっと私を見ていた。


 お母様が祖父の後を追っていくと、祖母は私の前に歩いてきた。


 「セレス、だね」


 「はい、おばあ——エリス様」


 「おばあちゃんでいいよ。七年ぶりだけど、まあ、覚えてないだろうね」


 「……すみません」


 「謝ることじゃない」


 祖母は私の顔をじっと見た。


 その目が、ふと細くなった。


 「……ふうん」


 ひと言だけ言って、それからにこりと笑った。


 「まあ、ゆっくり話そうか。急ぐことは何もない」


 その目の奥に、何かを知っているような光があった気がした。


 私は少し、背筋がざわりとするのを感じた。


 この人は——わかっているかもしれない。


 でも祖母はそれ以上何も言わず、屋敷の中へ歩いていった。


 私はその背中を見ながら、胸の奥でそっと蓋を確認した。


 しっかり閉まっている。


 ……大丈夫、のはずだ。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

       第五章 翠銀の魔女

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



 翌日の朝、祖母に呼ばれた。


 場所は屋敷の東端にある小さな部屋だった。

 書庫とも居間とも言えない不思議な空間で、本棚と魔道具が入り混じって並んでいる。

 窓辺には薬草が干してあり、独特の植物の香りが漂っていた。


 祖母はそこに一人で座って、お茶を飲んでいた。


 「座りなさい」


 向かいの椅子を示される。私は腰を下ろした。


 「エリス様——おばあちゃんは、どんなことをしていた方なんですか?」


 座るなり先に聞いてしまった。

 昨日から気になっていたのだ。あの目の奥の光が。


 祖母はお茶を一口飲んでから、少し面白そうに口を開いた。


 「昔はね、魔法使いだったよ。割と本気の」


 「どのくらい本気の?」


 「『翠銀の魔女』なんて名前で呼ばれてたくらいには」


 私はわずかに目を見開いた。


 「翠銀の魔女」——その名前は、書庫の魔法史の本に載っていたはずだ。

 大陸の各国に知れ渡った大魔法使いの一人として。


 「……おばあちゃんが、あの」


 「そう、あの、だよ」


 祖母は笑った。しわが深くなる。


 「今は引退してここで暮らしてる。ローガンがやかましいくらい心配するから」


 「……祖父様が?」


 「あの人、口下手だけど心配性でね。私がちょっとでも無理そうにしてると

 すぐ止めに来る。子供みたいなものだよ、そういうところは」


 祖父の顔を思い浮かべた。あの頑固じじいが、心配性。


 ……少し、かわいいな、と思った。


 「話がそれた」


 祖母がお茶をテーブルに置き、私をまっすぐに見た。


 「セレス、昨日から聞こうと思ってたことがある」


 「……はい」


 「あんたの魔力、隠してるね」


 静かな声だった。断定だった。


 私は一瞬固まった。


 そして、ゆっくりと答えた。


 「……何のことでしょう」


 「しらばっくれても構わないけどね」


 祖母は微笑んだままだった。


 「昨日、あんたが馬車から降りてきた瞬間に、わかったよ。

 大きな魔力を持つ人間というのはね、どんなに隠しても空気が違う。

 ローガンには絶対わからない感じ方だけど、私には見えた」


 「……」


 「怒ってるわけじゃない。むしろ感心した。

 あんたくらいの年で、あれだけ完璧に蓋をしてる子を、私は見たことがない」


 「……」


 「どのくらい大きいか、教えてもらえる?」


 私はしばらく沈黙した。


 正直に話すべきか。

 でも——目の前のこの人は、「翠銀の魔女」だ。

 その人の目をごまかせるとは、正直思えなかった。


 「……底が、ないと思います」


 静かに言った。


 「わかりません。どこまであるのか。

 三歳の頃に確かめようとして、やめました。

 深すぎて怖かったので」


 祖母は黙っていた。


 かなり長い沈黙だった。


 それから、ゆっくりと言った。


 「……魔力の制御は?」


 「独学で、七年やっています」


 「どの程度できる?」


 「……王宮にいた間、一度も漏れませんでした」


 また沈黙。


 今度は、さらに長かった。


 祖母が立ち上がり、窓辺に向かった。干した薬草に手を触れながら、外を見ている。


 やがて、独り言のように言った。


 「……すごい子が生まれたもんだ」


 それからゆっくりと振り向き、私を見た。


 「セレス、一つ聞く。隠している理由は?」


 「面倒なことに巻き込まれたくないからです」


 即答だった。


 祖母がわずかに目を丸くして、それから声をあげて笑った。


 「はははっ! そうか! そういう理由か!」


 「……笑うところでしょうか」


 「いやあ、正直でよかった。『目立ちたくないから』とか『怖かったから』とか

 そういう答えかと思ったよ。

 でも面倒なことが嫌だから、というのが一番正直で、一番正しい」


 「はあ」


 「その判断は間違ってない。私もそう思う」


 祖母は椅子に戻って腰を下ろした。


 「ただね、その量の魔力を持ってたら、一人で制御するのには限界がある。

 いつか限界が来る前に、正しいやり方を学ぶ必要がある」


 「……はい。それも、わかっています」


 「じゃあ決まった」


 「何がですか?」


 「私が教えてあげる」


 私は一瞬固まった。


 「……え? おばあちゃんが?」


 「他に誰がいる。この地方で、あんたの魔力を扱える教師は私しかいないよ。

 それに、私にはもう一人、頼もしい友人がいる。その人にも来てもらう予定だ」


 「どなたですか?」


 「名前はイザーク・ヴォルフ。昔なじみの魔法学者でね。

 知識量なら大陸一だよ。変な見た目してるけど、腕は確かだ」


 「……先生が来るんですか? この屋敷に?」


 「そうなる予定。ただし、その前に」


 祖母は私をまっすぐ見た。


 「一つだけ、お願いがある」


 「……なんですか?」


 「リーナ(お母様)には、まだ黙っていてほしい」


 私は少し考えた。


 「……理由を聞いてもいいですか」


 「あの子は心配性だから。セレスに大きな魔力があるとわかったら、

 自分のせいで娘が危険にさらされるかもしれないと思って、

 必要以上に自分を責める。今はまず、あんたが安全に扱えるようになることが先だ。

 その後で一緒に話す」


 「……わかりました」


 この判断は正しいと思った。お母様の性格をよく把握している。


 「決まりだ」


 祖母がお茶を飲み干した。


 「あ、それとセレス」


 「はい」


 「ローガンにも言わなくていい。あの人、絶対過保護になるから」


 「……祖父様も?」


 「あの見た目で過保護なんだよ、孫に対しては。

 去年、私が少し大きめの魔力を庭で使ったら、翌日から庭への出入りを

 制限しようとしてきた。笑えるでしょ」


 私は少し笑った。


 「……笑えます」


 「でしょ」


 祖母は満足そうに微笑んだ。


 「じゃあ今日から、たまにここへ来なさい。

 表向きは私のおしゃべりに付き合ってる、ということにしておく」


 「はい」


 私は立ち上がり、お辞儀をした。


 「……おばあちゃん」


 「なに」


 「秘密を守ってくれて、ありがとうございます」


 祖母はしばらく私を見た。


 それから、さらりと言った。


 「孫のためなら当然だよ」


 その言葉は短くて、でも、ずしりと重かった。


 私はその重さを胸の中にそっと入れながら、部屋を出た。

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