第二章 王宮というところ
王宮の朝は早い。
少なくとも、側室の区画に割り当てられた部屋ではそうだった。
日の出前に起き出して、侍女の手を借りて着替えをする。
「自分で着られないドレスを毎朝着なければならない」というシステムは、
前世の感覚で言えば「毎朝誰かにスーツを着せてもらう」みたいな話で、
正直、慣れるまでにずいぶん時間がかかった。
私の専属侍女はエルナという十六歳の少女だ。
薄茶色の髪をきっちりとまとめ、いつも少し緊張した顔をしている。
ウェスタリアから王宮に上がったばかりで、慣れない環境に戸惑っているのが丸わかりだ。
「セレス様、今日はどちらのドレスにいたしますか」
「水色のを」
「かしこまりました。……いつもほんとうに迷わないですね、セレス様」
少し驚いたような声だ。
貴族の令嬢は服を選ぶだけで三十分かける子もいると聞く。
私が即決するのが不思議らしい。
「動きやすければなんでもいいのよ」
これは完全な本音だ。
前世でも「今日何を着るか」問題は、「清潔で場に合っていればOK」と割り切ってから
劇的に楽になった。
着替えを終えると、お母様の部屋へ向かう。これが毎朝の日課だ。
扉をノックして入ると、お母様はすでに窓辺に座っていた。
銀色の髪が朝日に透けて輝いている。
……毎回思うが、本当に絵になりすぎる人だ。
前世の母も綺麗な人だったが、こちらはレベルが違う。
ファンタジー世界の美しさというか、現実感が薄いというか。
「おはよう、セレス」
微笑まれると、ものすごく心が安らぐ。
これが親の力か、と毎回感じる。
「おはようございます、お母様。お顔色がよいですね」
「あなたが来てくれるから、朝はいつも元気が出るの」
こういうことをさらっと言うのだ、この人は。
前世のあたしは三十路手前まで独身で(恋愛する時間がなかった)、
家族とも疎遠気味だった。だから「家族の愛」に触れると、
心の中の何かがじんわり温まる感覚がある。
「今日は王妃様の茶会はありますか?」
「ないわ。今日は静かに過ごせると思う」
「それは良かった」
二人でお茶を飲みながら、窓の外を眺めた。
王宮の庭は広く、よく手入れされている。
噴水、薔薇、整えられた石畳の小径。
インテリア雑誌に載せたら大人気になりそうな庭だな、と毎回思う。
「……セレス、一つ聞いてもいい?」
お母様が、お茶を持ちながら静かに言った。
「なんですか?」
「この王宮での生活は、つらくない?」
私は少し考えた。
つらい、という感覚はあった。
でもそれは「自分が不幸だ」というものではなく、
「早く帰りたいのに帰れない」というものに近い。
「つらくはないです。ただ……」
「ただ?」
「早く、ウェスタリアに帰りたいと思っています」
お母様はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうね。私も」
その言葉は、短くて、静かで、でも長い年月分の重さがあった。
◆◆◆
王妃ナタリア様の茶会に呼ばれた日は、私はいつもお母様に付いていく。
場所は東翼の「白薔薇の間」。壁に白薔薇の浮き彫り、天井に水晶のシャンデリア。
美しい部屋だが、ここで繰り広げられる精神戦の場だと知っている私には、
来るたびに戦場に入るような緊張感がある。
参加者は王妃様を中心に貴族の奥方や令嬢が十数名。
お母様と私は少し遅れて入室する。
「少し遅れて」は偶然ではない。王妃様側の意図で、全員の視線を集める状況を作られる。
見慣れた手だ。
「リーナ様、本日もお美しいこと」
王妃様がにこやかに言う。真に受けてはいけない。文脈的に嫌みだ。
「王妃様もご機嫌麗しゅうございます」
お母様が完璧な微笑みで返す。さすがだ。
茶会はおおむね穏やかに進んだ。
今日は被害が少ない、と思い始めた頃。
「ところで、セレスちゃんは最近どんなお勉強をしているかしら」
急に話題が私へ向いた。他の令嬢の視線が一斉に集まる。
王妃様は完璧な笑顔で私を見ていた。
この人の笑顔は完成度が高すぎて、逆に怖い。
「歴史と算術と、少し言語を」
「あら。魔法の訓練は?」
ここだ、と思った。
「魔力がほとんどないので、基礎だけ習っています」
「まあ……そうなの」
王妃様の声に、わずかな満足の色が滲んだ。
ここで「ああ、残念ね」と言いたいわけだ。
王妃様は魔力に優れた一族の出身で、自身も相当の使い手だと聞く。
「側室の娘は魔力がない」という事実を確認することで、
暗に何かを示したいのだろう。
「でも」
隣に座っていた伯爵夫人のヴェラ様が口を開いた。
「セレスお嬢様は算術がたいへんご得意だとお伺いしましたわ」
この方は王妃様の取り巻きではあるが、比較的まともな人間だと評価している。
今のもさりげなく助け舟を出してくれた形だ。
私はヴェラ様に微笑んだ。
「ありがとうございます。数字を見ていると落ち着くので」
「まあ、かわいらしい」
令嬢たちがくすくす笑う。悪意のない笑いだ。
「数字を見ると落ち着く」は前世では「あるある」だったが、
この世界では珍しいらしい。
王妃様は空気が変わったのを感じたのか、それ以上私への追求はなかった。
私はこっそり息を吐きながら、横のお母様の手にそっと自分の手を重ねた。
お母様が一瞬驚き、そっと握り返してくれた。
今日も大過なく終わりそうだ。




