第一章 三歳の朝と、前世の記憶
私が「自分は別の世界で生きていた」と気づいたのは、三歳の誕生日の朝のことだ。
きっかけは、お付きの侍女が持ってきた朝食だった。
白いパン、野菜のスープ、焼いたベーコン、それに果物の盛り合わせ。
ごく普通の、この世界の貴族の朝食である。
しかし私は、そのスープを一口飲んだ瞬間に、ぐわん、と頭が大きく揺れた。
そして次の瞬間、どっと記憶が流れ込んできた。
東京。満員電車。残業。コンビニ弁当。Excelの沼。締め切り。
上司の小言。取引先のクレーム。帰宅後に食べる冷凍うどん。
……あ。
あたし、死んだんだった。
鈴木奈穂、享年二十八歳。
東京都内のオフィスビルに本社を構える株式会社ミライテクノロジーソリューションズ
(社名が呪いのように長い)の一般事務職。
残業が多くて上司がうるさくて取引先がめんどくさかったけれど、
それなりに楽しく生きていた。
帰宅途中、横断歩道で信号待ちをしていたら、
ぴかっとなって、気がついたら赤ちゃんだった。
以上。
それだけの話だ。
記憶が戻ってから、私はしばらく混乱した。
しかし三歳児の脳と二十八歳の精神では、後者のほうが遥かに論理的である。
泣いたり喚いたりしても事態は何も変わらない、と数日で悟り、
私は静かに現状整理をすることにした。
現在地。ガルデニア王国・ウェスタリア地方のラングレー侯爵家。
身分。侯爵家の娘リーナが産んだ子ども。
名前。セレス・ラングレー。
つまり、貴族の家に転生した。
剣と魔法がある中世ヨーロッパ風の世界、というのは三年間の観察でだいたいわかった。
馬車が走っていて、ガス灯に似た魔道具があって、文明レベルは産業革命前くらいか。
そして何より重要なのが、魔法の存在だ。
誰でも使えるわけではなく、体の中に「魔力」と呼ばれるエネルギーを持つことが前提。
魔力のない人間(平民の大半がそうだ)は魔法が使えない。
魔力があっても、量と制御技術によって使える魔法の規模と種類が大きく変わる。
では私の魔力はどうか、というと。
記憶が戻ったその夜、こっそり確かめてみた。
感覚的に言うと——体の中に、とてつもなく大きな何かがある。
「大きな」という言葉では追いつかないかもしれない。
大陸の地下に広がる地下水脈のような、終わりも底も見えない、
どこまでも続く莫大な何かが、静かに、ただ在る。
そっと蓋をした。
心の中で「見なかったことにする」とラベルを貼り、以後ずっとそのままにすることにした。
理由は単純だ。
前世のあたしは、仕事が「できる」と思われたせいで、
なんでもかんでも押し付けられて消耗した。
「できる人には仕事が集まる」法則——あれは本当によくない。
今世ではそれを絶対にやらかさないと、心の奥底に誓っていた。
よって、私の公式設定は「魔力がほぼない普通の女の子」だ。
三歳からずっとそれを貫いている。
完璧だ。我ながら賢い判断だと思う。
……とはいえ、隠すだけでは済まないことも、なんとなくわかっていた。
あれだけの量があれば、いつか漏れ出す。
制御できなければ、隠す以前の問題になる。
だから私は、魔力を「持っているのに持っていないように見せる技術」を、
三歳の頃から独学で磨き始めた。
やり方は単純だ。湖の水を、絶対に外に出さない。
完璧に蓋をする。
蓋の隙間から一滴も漏らさない。
これが意外と難しく、最初の一年は毎晩汗をかいた。
でも二十八年分の粘り強さを持つ精神力は、三歳児の体を持ってしても発揮できた。
五歳になる頃には、完璧に「魔力のない子供」として周囲に認識されていた。
パーフェクト。
……まあ、一人だけ例外がいたのだが、それは後で話す。
◆◆◆
私の生い立ちについて、簡単に説明しておこう。
母リーナは、ウェスタリア地方を治めるラングレー侯爵家の一人娘だ。
ウェスタリアの人間は、銀色の髪と翠色の瞳を持つ者が多い。
お母様もその血を色濃く引いており、すらりとした長身に、
朝露を含んだような翠の瞳。
あたしが客観的に見ても「この人、本物の美人だな」と思うほど整った顔立ちをしている。
頭もよく、教養もあり、乗馬も得意で、魔力量も相当なもの。
どこに出しても恥ずかしくない、完璧な貴族の令嬢だった。
そのお母様がなぜ王様の側室に、と思うかもしれない。
理由はこうだ。
お母様が十九歳の頃、王都の王宮に侍女として上がった。
そこで国王陛下、アーウィン三世に見初められたのだ。
見初められた、という綺麗な言葉で語られているが、
一介の侯爵家の娘が王の求めを断れるはずがない。
つまり有無を言わさず側室にされたわけで、
当時のお母様のお気持ちを想像すると「ご愁傷様」という言葉しか浮かばない。
お父様、アーウィン国王陛下については、悪い人ではないと思う。
お母様への気遣いは見せるし、私にも優しかった。
ただ、正妻である王妃ナタリア様の顔色を窺って、
肝心なところで腰が引けるタイプだ。
前世で経験した「いい人なんだけど、なんで守ってくれないんだろう」という上司に
構造的によく似ていて、頼りになりそうで、ならない人、というか。
王妃様については——一言で言えば「苦手」だ。
美人で知性的で社交上手。文句のつけようがない完璧な王妃である。
しかし私とお母様に対しては、まったく別の顔を見せた。
表立って暴力を振るうような古典的なことはしない。
もっと巧妙だ。
侍女に命じて食事をわずかに遅らせる。
行事の際にお母様の席を端に追いやる。
私に挨拶させておいて気づかないふりをする。
他の貴婦人たちの前で、聞こえるか聞こえないかの声で侮辱する。
じわじわと消耗させる、陰険な嫌がらせ。
前世で経験した「陰湿な職場の上司」と、構造がほぼ同じだった。
役に立っているのか、とツッコまれそうだが——おかげで手口をすぐに見抜けたので、
まあ、前世の苦労も無駄ではなかったのかもしれない。
王子たちについては、幼い頃から苦労した。
第一王子レオナルド殿下と第二王子クロード殿下。
私が王宮に来た三歳の頃、それぞれ十五歳と十三歳だった。
レオナルド殿下のいじめは計算された陰湿さがあり、
クロード殿下のそれは思ったことをそのままやるわかりやすい系だった。
どちらも不快ではあったが、前世で社会の荒波を五年泳いだあたしのメンタルは、
十代の王子たちごときでは傷つかなかった。
あたしは笑顔で受け流しながら、ただ一つのことを考えていた。
早くウェスタリアへ帰りたい。
おじいちゃんとおばあちゃんがいる、静かな地方の屋敷へ。
そこで畑でも眺めながら、誰にも邪魔されずにのんびり暮らしたい。
それだけが、あたしの唯一の願いだった。




