第十六章 山脈を越えて
三日後の早朝、私たちは屋敷を出た。
私と祖母とイザーク先生の三人。
祖父には「セレスの魔法訓練のため、山の近くに数日滞在する」と言ってあった。
嘘ではない、と私は思う。少なくとも半分は本当だ。
お母様には「少し遠出をします」と言い、
「気をつけて」と言われ、「何かあったらすぐ帰って」と言われた。
「何かあれば帰ります」と答えたのは、完全な本音だった。
前世のあたしが出張前に上司へ言うのと同じ台詞だ。
ヴェルタ山脈の麓まで馬で移動し、そこから徒歩で山に入った。
「先生は反対しなかったんですか?」
歩きながら、私は先生に聞いた。
先生は丸眼鏡を少し押し上げながら答えた。
「……「魔族の帝国を実際に見られる可能性がある」と言われたら、断れませんでした」
「やっぱり」
「学者として、百年に一度あるかないかの機会ですよ。
エリスが魔族と接触した経験があるということも、初めて聞きました」
「私もあの話は最近知った」
祖母が先頭を歩きながら言った。
「誰にも言っていなかった話だから」
山の中に入ると、空気が変わった。
先生は足を止め、深く息を吸った。
「……これは」
「山の自然魔力です。このあたりから濃くなります」
「わかってはいましたが、実際に感じるとまた違いますね」
「歩けますか?」
「問題ありません。むしろ心地よいくらいです」
祖母は黙って歩き続けていたが、表情が少し穏やかになっていた。
「懐かしいね」
ぽつりと言った。
待ち合わせの木の近くに着くと、すでにミーアが待っていた。
「来た来た!」
ミーアが飛び出してきた。
そして私の後ろの二人を見て、少し目を丸くした。
「あの……お二人は?」
「私の祖母です。エリス・ラングレー」
「そして私はイザーク・ヴォルフと申します。セレス嬢の魔法教師です」
ミーアが祖母を見た。
「エリス……もしかして「翠銀の魔女」?」
「そうだよ」
ミーアの目が、みるみる輝いた。
「本物!? お父様が「もしかしたら来るかもしれない」って言ってた!
絶対喜ぶ!」
「……ミーアのお父様は私のことを知っているんですか?」
「うん! 大昔に会ったことがある、って言ってた」
祖母の表情が、かすかに変わった。
驚き、それから何かを思い出すような顔。
「……そうか」
それだけ言って、祖母はかすかに笑った。
「では、ご案内します! 山脈の峠道を使えば、半日で帝国の入り口まで行けます」
私たちはミーアの後を追った。
確かに「道」はあった。
岩が邪魔にならない場所に並んでいて、木の枝が自然な形で避けていて、足元が滑りにくい。
山の自然地形に沿って、魔力でわずかに「歩きやすく」してある感触がある。
「魔族が作った道ですか?」
「そう。大昔からある道だって。誰が最初に作ったかはわからないけど」
「……大戦より前から、という可能性も?」
「あるかもしれない。昔は人間と魔族が行き来してたって聞いたことある」
二時間ほど歩いたところで、峠を越えた。
山脈の西側が一望できた。
東側が盆地なら、西側は緩やかに広がる大地だ。
遠くに都市らしき輝きが見える。
「あれが帝都です」
ミーアが指差した。
「魔力で光らせているので遠くからでも見える」
先生が興奮した顔をしている。
「都市全体を光らせる魔力の仕組み……これは実際に見ないと理論的に
理解できるものではないですね」
「先生、今日はあくまで客人として行くので、メモは控えめに」
「わかってはいますが……」
「わかってはいる、が一番信用できない言葉ですよ」
「……善処します」
祖母がくすりと笑った。
「イザーク、大人しくしていなさい。後でゆっくり見る時間が作れるから」
「エリスにそう言われると……そうしましょう」
さすが旧友。先生への抑止力が全然違う。
麓に近づくと、道の両脇に四名の魔族の衛兵が立っていた。
「皇女ミーア様、ご帰還を」
「ただいま。客人を三名お連れしました。お父様にはご連絡済みです」
「承知しております。ご案内いたします」
兵士がこちらに向き直り、頭を下げた。
「人間の方々、ようこそ魔族帝国へ。陛下がお待ちです」
私は静かに頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
こうして私たちは、人間と魔族が数百年ぶりに正式な接触をする、
その最初の一歩を踏み出した。
……前世的に言えば、初めての取引先への訪問だ。
まず好印象を作ること。先方の流儀を尊重すること。
話は聞いてから判断すること。
基本は同じだ、たぶん。




