第十五章 招待状
秋も深まった、約束の日の午後だった。
月の十日。その日の昼を少し回った頃、私はいつもの場所で待っていた。
山の中の、開けた岩場の近く。
「次からここにしよう」とミーアと決めた場所だ。
草の上に腰を下ろして、持ってきた水を飲んでいると、
山の上のほうから足音が近づいてきた。
軽くて速い、ミーアの足音だ。慣れてくるとわかる。
「セレス!」
木々の間から飛び出してきた。
「こんにちは。今日は少し様子が違いますね」
「えへへ。あのね、今日は大事な話がある」
ミーアが少し改まった顔をして、一歩近づいてきた。
今日はいつもより少し真剣な目をしている。
前回会った時に「もしかしたら次に来る時、大事な用件を持ってくるかもしれない」
と言っていたが、それだろうか。
「聞きます。どうぞ」
「……うちに来てほしい」
「うち、というのはミーアのお城ですか?」
「そう。お父様がセレスに会いたいって」
私は少し考えた。
「ミーアのお父様というのは、魔族の皇帝ですよね」
「うん」
「皇帝があたしに会いたい、というのは——ミーアがあたしのことを話したから?」
「……ちょっとだけ、話した」
ミーアが少し申し訳なさそうな顔をした。
「怒った?」
「怒っていないですが、驚いています。どんなふうに話したんですか?」
「「山で面白い人間と友達になった。魔法の制御を教えてくれた」って言ったら、
お父様がすごく興味を持って。
人間と話したことのある魔族がほとんどいないから、珍しいみたいで」
「……皇帝陛下に話したんですね」
「怒った?」
「だから怒っていないです。ただ、状況の確認をしています」
私はしばらく考えた。
人間と魔族は三百年以上、不干渉だった。
ミーアと山で友達になること自体、すでにその慣習を外れている。
魔族の皇帝に会いに行くとなれば、さらに大きな話になる。
断る理由は、いくつもある。
でも——行く理由も、ないわけではない。
まず純粋な好奇心として、魔族の帝国を見てみたい。
それから、もし本当にウェスタリアと魔族の間に何らかの関係が生まれるとしたら、
それは将来的に大きな意味を持つかもしれない。
王子たちの後継者争いで板挟みになっているウェスタリアにとって、
「魔族と繋がりがある」という事実は、独自の立場を作る力になり得る。
前世的に言えば、「リスクとリターンを比較した結果、行く価値がある」という判断だ。
「一つ確認してもいいですか」
「なに?」
「私がミーアと山で会っていることを、今、皇帝陛下以外に知っている人は?」
「お父様だけ。他には話していない。護衛にもまだ言っていない」
「ウェスタリアへの道中や、帝国内での安全は保証できますか?」
「お父様が保証する、って言ってた。正式に客人として扱う、って」
「……いつ頃の話ですか?」
「次に会う時に来られるなら来てほしい、って。だから今日聞いた」
私はもう少し考えた。
祖母に相談すべきだろうか。
いや、相談したほうがいい。これは一人で判断する話ではない。
「一つお願いがあります」
「なに?」
「今日すぐには返事ができません。祖母に相談する必要があります」
「おばあちゃんに?」
「私の祖母は「翠銀の魔女」と呼ばれた人です。
魔族のことも、山のことも、よく知っている。
この件は一人で決めるより、相談してから決めたほうがいい」
ミーアが少し考えてから、頷いた。
「……そうだね。大事な話だもんね。ちゃんと考えてくれて、ありがとう」
「次に来た時に返事をします。三日後でいいですか?」
「うん、待ってる!」
ミーアが笑った。
「セレスはいつも、ちゃんと考えるね」
「そうしないと後で困るので」
「うちのお師匠様みたいだ」
「それは褒め言葉ですか?」
「すごく褒め言葉!」
ミーアは笑いながら、また茂みに消えていった。
私は山を下りながら、頭の中で整理を始めた。
魔族の帝国に行く。皇帝に会う。
……前世でも、こんな話は一度もなかったな、当然ながら。
でも根本的な構造は「初対面の取引先に顔を出す」と似ている気がする。
相手の流儀を知り、失礼のない振る舞いをし、話を聞く。
むしろ前世の仕事で鍛えた能力が、最も活きる場面かもしれない。
◆◆◆
その夜、祖母の部屋で一通り話した。
祖母は話を聞きながら、お茶を飲んでいた。
表情はいつものように穏やかで、驚いたふうには見えなかった。
「……魔族の皇帝に直接会いに来い、という話か」
「はい。ミーアが話したのをきっかけに、皇帝陛下が興味を持ったらしく」
「危険だと思うか?」
「ゼロではないですが、低いと判断しています。
皇帝陛下が「正式に客人として扱う」と言っているならば、
魔族の礼節上、客人を傷つけることはないはずです——
少なくとも、書物に書いてあった魔族の慣習では」
「よく調べてある」
「書庫の本に少し記述があったので」
祖母はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「私はね、セレス。若い頃、魔族と接触したことがある」
「……あの山脈の向こうへ行ったんですか?」
「いや。向こうから来た魔族と、山の中で会った。
ミーアとお前が会ったのと同じように、偶然にね」
「どんな方でしたか?」
「若い男だった。今思えば、皇族の血筋だったかもしれない。
魔力の感触が普通の魔族とは少し違ったから」
「友好的でしたか?」
「最初は警戒していた。でも話してみると、礼儀正しくて、知的だった。
何度か会って、話した。魔法のことをいろいろ教えてもらった」
「……初めて聞きました」
「誰にも言っていなかった話だよ。ローガンにも」
祖母が少し遠い目をした。
「やがて来なくなった。何があったかは知らない。
でも、その経験があるから——魔族は「怖いもの」だとは思っていない。
礼を守る種族だ、ということはわかっている」
「……行っても大丈夫だと思いますか?」
「お前が行くなら——」
祖母がこちらを見た。
「私も行く」
「え?」
「お前一人で行かせるつもりはない。
それに、もしかしたら私の旧知の縁が、向こうにあるかもしれない」
「でも、おばあちゃんは体が——」
「失礼なことを言うな。今でも動けるよ」
「……」
「それから、ローガンには言わない。
あの人が知ったら絶対に止めに来る」
「……お母様にも?」
「それは……リーナには、「少し遠出をする」とだけ言っておこう。
心配性だから詳しくは言えない。
ただ、帰ったら全部話す。それでいい」
「……わかりました」
「イザークも連れていく。あの人は慎重だから反対するかもしれないが、私が説得する」
「先生を巻き込むんですか……」
「三人のほうが安全だろう。それに、イザークも魔族の魔法に興味があるはずだ。
あの人の好奇心を刺激すれば、必ず来る」
「……おばあちゃんは人の扱い方が上手いですね」
「長年生きると、そうなる」
祖母が立ち上がり、棚から古い小さな箱を取り出した。
開けると、透明な石が入っていた。
無色透明だが、中心に微かな光が宿っているように見える。
「何ですか、これ」
「昔、山で会った魔族の男にもらった石だ。
「安全の証」として持ち歩くといいと言っていた。
魔族の間では、この石を持っている者は保護されるという慣習がある——
少なくとも当時はそうだった」
「三十年以上前の話ですよね……今も通じるかどうか」
「通じるかどうか確かめに行くのだろう、これから」
「……それはそうですね」
私は石を受け取った。
手のひらの上で、石が微かに温かかった。
「三日後に返事をすると約束しました」
「ではそれまでに準備する。イザークを今から説得してくる」
「……今からですか。もう夜ですよ」
「あの人は夜更かしだから」
祖母が部屋を出ていった。
私はその石を握りながら、窓の外の暗い山脈を見た。
あの山の向こうへ行く。
面倒ごとを避けたいOLの精神が「本当に行くのか」と言っている気がしたが、
好奇心のほうが、少し上回っていた。
……まあ、これは必要な面倒ごとだ。
前世でも、必要な打ち合わせには行っていたのだ。あたしは。




