第十一章 山脈の奥で
王子たちへの返事を送ってから数日後、私は久しぶりに山へ行った。
政治の話は一旦横に置きたかった。
屋敷の中にいると、どうしても「次に何が来るか」を考えてしまう。
山の中にいると、それが消える。自然の魔力と、木々の音と、土の匂いだけになる。
カインとは、その後何度か話した。
最初は短い言葉を交わす程度だったが、少しずつ打ち解けていった。
カインは寡黙だが、聞いたことには正直に答えてくれた。
亜人の集落のこと、山の生態のこと、自然魔力の流れのこと。
私も答えられる範囲で話した。ウェスタリアのこと、屋敷の生活のこと。
魔力の話は——カインは私が大きな魔力を持っていることを感じているようだが、
詳しくは聞いてこなかった。こちらの事情を尊重してくれているのかもしれない。
その日、いつものように木の幹を三度叩いたが、カインは来なかった。
少し待ってみたが、来ない。
仕方なく、一人で山の中を歩いた。
いつもより少し奥まで入ってみようと思い、踏み込んでいった。
十分ほど歩いたところで——気配を感じた。
カインではない。知らない気配だ。
立ち止まり、自分の気配を消し、静かに周囲を感じた。
魔力がある。
人間ではない。魔獣でもない。
人の形に近い何かが、ごく近くにいる。
そして——向こうも、気づいている。
草むらがざわりと揺れた。
そこから、ひょい、と顔が出てきた。
「……あれ、人間?」
明るい声だった。
出てきたのは、人間に近い外見だが、明らかに人間ではない存在だった。
銀白の長い髪に、赤みがかった金色の瞳。
耳はやや尖っていて、体から薄く何かが揺れているように見える——魔力の揺らぎだ。
年齢は、見た目上は私より少し上くらいだが、どこか幼い雰囲気がある。
「人間が来てる! 山の中に!」
相手はそれだけ言ってから、キョロキョロと周囲を見回した。
「一人? 一人で来てるの? 魔獣に食べられるよ?」
「大丈夫です」
私は静かに答えた。
相手がまた私を見た。
「……強いの? 魔力、ある?」
「少しは」
「少しは、ねえ」
相手が首を傾けた。
「嘘くさい」
「……」
鋭い。
「あなたは何者ですか?」
「私? ミーア」
「ミーアさん。人間ではないですよね」
「そう。でも種族は言わない方がいいかな……一応、人間とは関わらないことになってるから」
その言葉で、私はピンときた。
「……魔族、ですか?」
相手——ミーアが少し目を丸くした。
「知ってるの!? 人間なのに?」
「本で読みました。山脈の向こうに住む、魔法に優れた種族、と」
「す、すごいね……普通の人間は知らないのに」
ミーアが少し考えてから、ぽつりと言った。
「……姫、です。一応」
「姫、というのは王族という意味ですか?」
「そう。でも難しいことは苦手だから、あんまりそういう感じじゃないけど」
「どうして山脈のこちら側に?」
ミーアが少し視線をそらした。
「……抜け出してきた」
「え」
「お城の中にずっといるのが嫌で、こっそり出てきた。
山の中を探検してたら、なんか人間の気配がしたから来てみた」
私はしばらく、このお転婆な魔族の姫君を見つめた。
「……護衛はいないんですか」
「置いてきた。見つかったら怒られるから早く帰らないとなんだけど」
「危なくないですか、一人で山を歩くのは」
「魔族だから魔獣には狙われない。それに私、魔法そこそこできるし」
「そこそこ」
「えと……まあ、標準くらい、かな。姫にしてはたいしたことない、って言われる」
ミーアは少し複雑な顔をしてから、また私を見た。
「あなたは? 名前は?」
「セレスです。ウェスタリア地方のラングレー家の者です」
「セレス! いい名前だね。
……あのさ、変な話かもしれないけど」
ミーアが少し前に出てきた。
「また来ていい? ここ。
お城、退屈で……話せる子がいなくて」
私は少し考えた。
人間と魔族は関わらないのが慣習だ。
でも目の前のこの子は、悪意を持っていない。
そして「退屈で、話せる子がいない」という言葉は——前世のあたしにも覚えがある。
「私もここへ来ることがあります。また来れば、会えるかもしれません」
ミーアの顔がぱっと明るくなった。
「本当に?!」
「ただし、一つ確認があります」
「なに?」
「ミーアさんは、お城を抜け出して人間側に来ているとわかったら、
誰かに怒られますか?」
「怒られる」
「では私もここで会ったことは人間側には言いません。
ミーアさんも、私のことは誰にも言わないでいただけますか?」
ミーアが少し考えてから、元気よく頷いた。
「言わない! 約束する!」
「……では、また会いましょう」
ミーアが大きく笑った。
「やった! 友達ができた!」
「友達、というのはいいですが、まだ一度会っただけですよ?」
「十分! あ、もう帰らないと。じゃあセレス、またね!」
嵐のように現れて、嵐のように去っていった。
私はしばらく、ミーアが消えた方向を見ていた。
……あの子は大丈夫なのか。
あんなに元気よく帰って、帰り道で魔獣に出くわさないか。
まあ、魔族なら大丈夫、だろう。たぶん。
私は山を下りながら、今日の出来事を整理した。
魔族の姫と知り合ってしまった。
これは「面倒ごとを避ける」という信念に反するのか?
……いや。
あの子は純粋に退屈していて、友達が欲しかっただけだ。
政治的な意図も、危険な目的も感じない。
なら、友達になっても問題ないだろう。
前世でも、職種も年齢も関係なく、気が合えば友達になった。
魔族と人間、という違いは、それよりよっぽど大きいけれど——
まあ、同じことだと思う。
◆◆◆
祖母にその日のことを報告した。
「……魔族の姫、ね」
祖母の顔が、少し複雑になった。
「どう思いますか?」
「人間と魔族が交流しないのは、慣習だ。
でも三百年前の慣習が、今も正しいかどうかはわからない」
「おばあちゃんは、いつかそれが変わると思いますか?」
「……どこかで誰かが、最初の一歩を踏み出す必要がある。
その最初の一歩が誰になるかは、わからないけどね」
「もしあたしが……という可能性はありますか?」
祖母がじっと私を見た。
「あるかもしれない。でも今は焦らなくていい。
まずその子と、ただの友達になりなさい。
それ以上のことは、その後でいい」
「わかりました」
祖母はお茶を飲みながら、ぼそりと言った。
「……それにしても、あんたは本当にいろんな縁を拾ってくるね」
「普通にしているだけなんですが」
「普通、というのがすごいんだよ」
私は少し考えて、それから言った。
「前世で、『普通の人間関係』というのが一番難しいと思っていました。
仕事の関係は役割があるから簡単だけど、ただの友達というのが——
社会人になってから、うまく作れなかったので」
「今世はどうだ」
「……まだよくわかりませんが、悪くないです」
祖母がゆっくりと微笑んだ。
「そうか」
それだけ言って、窓の外を見た。
遠くに、ヴェルタ山脈の白い峰が夕日に染まっていた。




