第八章 山の声
ウェスタリアに来て一ヶ月が経つ頃には、屋敷の生活にすっかり馴染んでいた。
午前中はイザーク先生と魔法の授業。
午後は書庫で読書か、厩舎で馬の世話。
夕方は祖母のおしゃべり部屋でお茶を飲む。
夕食は四人で食べる。
規則正しく、穏やかで、誰にも迷惑をかけない生活だ。
これがあたしの理想郷、と毎日思っていた。
ただ——一つだけ、引っかかることがあった。
毎朝、窓から見えるヴェルタ山脈の白い峰。
あの山が、気になって仕方ない。
本で調べるだけでは飽き足らず、祖母に聞いてみた。
「おばあちゃんはヴェルタ山脈に入ったことがありますか?」
祖母はお茶を飲む手を少し止めて、「ある」と答えた。
「どのくらい深くまで?」
「中腹まで。魔獣の生態を調べたくてね。若い頃の話だよ」
「亜人とも会いましたか?」
「会ったよ。狼亜人の集落があってね、最初は警戒されたけど、
しばらく通っていたら打ち解けた。話せる言語があれば、
人間と亜人は普通に意思疎通できる」
「……どんな人たちですか、亜人は」
祖母はしばらく考えてから答えた。
「種族によって全然違う。狼亜人は義理堅くて直接的。
鳥亜人は好奇心旺盛で落ち着きがない。
熊亜人はとにかく穏やかで物静か。
ただどの種族も共通しているのは——人間より魔力を持つ者が多いこと。
山の魔力が豊かだから、そこで生きる者に宿りやすいんだろうね」
「山の魔力?」
「ヴェルタ山脈そのものが、相当量の自然魔力を持っているんだよ。
だから魔獣が多いし、亜人が住んでいる」
私は少し考えた。
「……おばあちゃん、私がその山に行くのは、駄目ですか?」
祖母がじっと私を見た。
「なんで行きたい?」
「わかりません。ただ、なんとなく、気になって仕方ないんです。
あの山を見るたびに」
祖母は沈黙した。
それから、静かに言った。
「……魔力が呼ばれているのかもしれない」
「え?」
「山の自然魔力と、大きな魔力を持つ者が引き合うことがある。
あんたの魔力の大きさを考えれば、山が「来い」と言っているように感じても
不思議じゃない」
「……そんなことがあるんですか」
「理論的に証明されてはいないけどね。
ただ、経験則では確かにある」
祖母はしばらくまた考えた。
「ただし、一人では駄目。それから、今の訓練がもう少し進んでからだ。
制御が甘いまま山の自然魔力に触れると、自分の魔力が暴走しやすくなる」
「……わかりました」
「我慢できそう?」
「できます。待てます」
前世でも、どうしても欲しいものがある時は地道に準備してから動いた。
衝動的に動いて失敗するのは、一番避けたいパターンだ。
◆◆◆
それから四ヶ月、私は魔法の訓練に本気で取り組んだ。
イザーク先生は毎日二時間の授業を行い、私の制御技術の「癖」を丁寧に直していった。
「今の流し方、少し右に偏っています。
左側を意識してみてください」
「……こうですか?」
「そうです。感覚をつかんだら、次は目を閉じてやってみましょう」
一見地味な作業の繰り返しだが、少しずつ変化を感じた。
水を流す感覚が、最初は「バケツを傾ける」感じだったのが、
「蛇口をひねる」感じになり、やがて「針の穴を通す」感じになっていった。
祖母も週に三回、実践的な魔法の制御を直接指導してくれた。
「力の加減を、見た目に出すな。
外からわからないように動かせてこそ、本当に制御できているということだ」
これが一番難しかった。
魔法を使うとき、人は無意識に集中した顔や体の動きをする。
それを一切出さずに、普通の顔で会話しながら魔力を操る。
「……こうですか?」
「違う。今、目が少し細くなった」
「……こうですか」
「まだ、口元が固い」
「む……こうですか」
「よし。今のは自然だった」
そういう稽古を、祖母は延々と続けた。
最初は一分も持たなかった「普通の顔で魔力を操る」が、
四ヶ月後には一時間以上、会話をしながら維持できるようになった。
「すごい上達だ」
祖母が珍しく、はっきりとした賞賛を言った。
「……本当ですか」
「私に世辞は言えないよ。
この四ヶ月で、普通の人間なら三年かかる制御技術を身につけた」
「それは前世の記憶があるから——ではなく、
七年間の積み重ねがあったからだと思います」
「どちらもだろうね」
祖母は満足そうに頷いた。
「では、そろそろ許可しようか」
「……山ですか?」
「ただし条件がある。山脈の麓から、中腹より上には行かない。
私かイザークが一緒の時だけ」
「わかりました」
「あと、見つけた魔獣には絶対に近づかない。
亜人と出会ったら、こちらから急に話しかけない。
向こうが接触してきた時だけ、応じる」
「はい」
「それから——山に入る時は、なるべく自然な格好で。
貴族のドレスで行くのは違和感がありすぎる」
「そうですね。普通の旅装束でいいですか?」
「それがいい」
祖母が立ち上がり、棚から古い地図を取り出した。
「ここからここまでが、安全に入れる範囲。
このあたりに狼亜人の集落があったが、今もあるかは確認していない。
三十年以上前の話だからね」
「三十年以上……」
「亜人の集落は移動することがあるから。
でも山の地形は大きくは変わらない。地図の道筋は参考になる」
私は地図を受け取り、しっかりと頭に入れた。
◆◆◆
初めて山へ入ったのは、ウェスタリアに来て五ヶ月目のことだった。
イザーク先生と二人で、山脈の麓から少し入ったところを歩いた。
一歩山に入ると、空気が変わった。
王都にも、ウェスタリアの屋敷の庭にもない、濃密な空気だ。
草や苔や土の匂いが混ざっている。
木々の間から差し込む光が、緑を通してエメラルド色になっている。
そして——どこかから、何かが満ちてくる感じがした。
「……先生、これは」
「自然魔力です。ヴェルタ山脈の魔力密度は、大陸でも有数です」
「体の中に……入ってくるみたいな」
「感じますか。あなたほどの器なら、強く感じるでしょう」
私は少し立ち止まり、全身で感じてみた。
山の魔力が、外から静かに押し寄せてくる。
体の中の「湖」に、外から水が注がれるような感覚だ。
怖い、とは思わなかった。
むしろ——心地よかった。
なぜここが気になっていたのか、この瞬間に少しわかった気がした。
「先生、少し歩いてみていいですか」
「構いませんが、あまり深くは入らないように」
「わかっています」
私は少しずつ、山の中を歩いた。
魔獣の気配を感じながら、でも出会わないように、自分の気配を押さえながら。
これも訓練のうちだ。「気配を消す」というのも、魔力制御の応用だと先生に聞いていた。
三十分ほど歩いたところで、先生が「今日はここまでにしましょう」と言った。
私は少し惜しく思ったが、頷いて引き返した。
屋敷に戻る道すがら、先生が言った。
「どうでしたか、初めての山は」
「……気持ちよかったです」
先生が微笑んだ。
「また来ましょう。少しずつ、範囲を広げていきましょう」
「はい」
私は後ろを振り返り、山を見た。
今日は麓だけだったが——もっと奥に行ってみたい。
その気持ちは確かにあった。




