<EP_013> 届いた声
イカロスが飛び立った後もナウクラテーは塔へ食事を運び続けた。
イカロスの脱走を世に知られるのを遅らせるためだった。
そして、彼女は港の桟橋に立ち、塔と海を眺めながらイカロスの無事を祈り、船員たちの噂話に耳をそばだてた。
港へ来るナウクラテーは、既に40を越え、当時としては高齢であったが、その艷やかな黒髪と気品すら感じる毅然とした立ち振舞い、美しい顔立ちに奴隷の服を着ていたが、船員たちの間では噂になっていった。
いつものように桟橋で祈りを捧げていると、シチリアから来たという商人がナウクラテーに声を掛けてきた。
「御婦人、あなたは何を祈っておられるのですかな?」
商人の顔には隠しきれない好奇心と下心が透けて見えていた。
「先日旅立った息子と夫の無事を祈っています。あなたは、何処から来られたのですか?」
「そうですか。それは心配でしょうな。私はシチリアから来ましたよ」
「まぁ、そうでしたの。どうです、シチリアには変わったことがございましたか?」
ナウクラテーの言葉に商人は少し考えた。
「そうですねぇ…なんでも最近はシチリアに天才発明家が飛来したということが、もっぱらの噂ですな。なんでも、空から舞い降りたという話でして…」
商人の言葉にナウクラテーは息を飲んだ。
「あ、あの…その方はお一人でシチリアに来られたんですの?」
カラカラに渇いた喉から震える声を絞り出し、ナウクラテーは商人に尋ねた。
「ええ、独りで来られたと聞いていますよ」
「そうですか……」
商人の言葉にナウクラテーは安堵したような顔と消沈したような顔を見せた。
「なんでも、船乗りの話では、その方がシチリアに降り立つ少し前に燃える大きな鳥が海へと落下するのを見たそうで、それで良く覚えていたそうですよ」
商人の言葉にナウクラテーは身体が震え、全身の力が抜けていくような感覚に囚われ、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまった。
ナウクラテーは手で顔を覆い、目は見開いてはいたが、何も見ていないような絶望の目で地面を見ていた。
「御婦人、大丈夫ですか」
へたり込んだナウクラテーを商人は支え、ナウクラテーを近くの岩の上へと座らせてくれた。
岩に座り込んだナウクラテーは自分の身体を抱きしめ、それほど寒くは無いというのに、全身の震えは止まらず、何も映っていない目で虚空を見つめ続けていた。
「で、では、私はこれで……」
ナウクラテーの様子がおかしいので、商人はそそくさとその場を離れようとした。
「あ、あの…お待ちを」
去ろうとする商人をナウクラテーが呼び止めた。
「何か?」
商人は怪訝そうな顔でナウクラテーを見てきた。
「あ、あなたは文字が読めますか?」
「え、ええ…」
商人が頷くと、ナウクラテーは胸元から一通の手紙を取り出した。
「この手紙は息子が旅立つ前に私に渡してきたものです。私は文字が読めません。読んで頂けませんか?」
「わかりました」
そういうと商人はイカロスの手紙を読み始めた。
親愛なる母様へ
母様、これを読んでいらっしゃる時には、私は既に父様と旅立っていることでしょう。
父様は母様の言う通り、私にも翼を作ってくれました。
母様を残して旅立つことは心残りではありますが、母様には大変感謝しています。
私がここまで育つことができたのは、母様のお陰だと思っています。
母様は私とアステリオスを分け隔てなく愛情深く育てて下さりました。
アステリオス兄さんには大変申し訳ないことをしたと思っています。
兄さんが地下にいた時に私は地上で母様の愛情を受け、何の不自由もなく暮らしていました。
その時、兄さんはあの霊廟で他人のために、絵を描き、祈りを捧げていました。
そんな兄さんを私は誇らしく思います。
母様は兄さんをずっと見守っていたのでしょうね。
私は、兄さんのことなど知らずに過ごしていたことを恥ずかしく思います。
ただ、兄さんが書いた母様の絵に幼い私がいたことはとても嬉しかったです。
兄さんを気にせずに暮らしていた私を兄さんは忘れないでいてくれた。
兄さんにとって、私と母様とで暮らした時が唯一の希望だったのかもしれません。
そんな兄さんが、あんな姿で亡くなったことが無念でなりません。
私の無念よりも、兄さんの無念はいかばかりだったのか想像も尽きません。
もし、私が空を飛び、天空にいる神に出会えるのであれば、私は兄さんを救ってくれなかった神を断罪したいぐらいです。
人の身で神を断罪するなど、不遜の極みではありますが、私は兄さんの無念を一言でも言ってやらないと気がすみません。
母様、愚かな息子ですが、今まで育ててくれてありがとうございました。
どうか、身体に気をつけてお過ごしください。
離れていても、私は母様と兄さんを愛しております。
勝手ですが、兄さんのことをよろしくお願いいたします。
商人は手紙を読み終えるとナウクラテーに返した。
「いやあ、なかなかスゴい息子さんですな。人の身で神を断罪しようなど、なかなかできることではありませんな」
商人は冗談だと取ったのだろう。声を上げて笑っていた。
しかし、手紙を受け取ったナウクラテーはイカロスの死の真相を知り、手紙を胸にしまうと、顔を覆って嗚咽を漏らした。
「ありがとうございました…私なら大丈夫ですので……」
顔を覆い、大粒の涙を零しながら嗚咽混じりで商人に礼を言うと、ナウクラテーはその場で泣き崩れていった。
泣き崩れたナウクラテーを訝しみながら、商人はその場を去っていった。




