第8話 スミレの作戦
スミレと巌咲の霊魂達は数日前まで滞在していた黄金の水田へ足を急いでいた。
スミレは数千もの霊魂を先導しながらエタと交わした会話を思い返す。
「捕食霊はただお腹が空いているだけなんです」
「じゃ、お前がうまい飯を作るまで囮になればいいんだな」
エタが強いことは知っているけれど、無数の手を持つ捕食霊を相手にどれほどの時間持ち堪えられるか分からない。
だからこの作戦の肝は、美味しいおむすびをどれだけ早く作れるかに掛かっている。
巌咲の霊たちが隠し持っていた学校の調理器具を使えば、人手も相まって数時間で終わらせられる。
そうスミレが確信した矢先、鼻尖を甘い香りがくすぐった。
以前来た時は、こんな溶けた砂糖のような匂いはしなかった。
不安感を抱えながら目的地へ急ぐが、妙なことにその香りはだんだんと濃く鈍くなっている。
香りの元は、まさに彼女たちの目的地であった水田から起こっていた。
「なんですか……これ」
息が上がっているスミレの目の前には、異彩な火の海が広がっていた。
スミレが収穫した田んぼとエタが竹を採取した山の大半が、見たこともない黄緑色の炎に焼かれている。
二人でおむすびを食べた畦道にまで、不可思議な火種が飛び跳ねている。
鮮やかな紫紺の天に収まるエメラルドグリーンの地獄は、むしろ美しいとさえ思う。
霊魂達は、かつての地獄が思い起こされる。あの時と、同じ。
目に映る光景が理解できずに、あえなく絶句してしまった。
それもそのはず、地獄を造っているこの火炎は、かつての世界の北の大陸で造られた周囲の風景と同化する「不可視の火炎」という戦争兵器である。
エタから戦争の概要を聞いていないスミレは、少しの間呆然としていたが、弾けた火花の熱に当てられて我を取り戻す。
すぐ後ろには戸惑い、絶望する霊魂が小さく固まっていた。
「……私が折れたら……ダメだ」
スミレは自らの頬を両手で思いっきり叩く。バチンと大きな音が響く。
顔はジーンと痛むが、いい目覚ましだ。
「皆さん! まだなんとか出来ます!」
精一杯の声を上げて霊たちの視線をこちらに向けさせる。
作戦は破綻したが、勢いに任せて口を遊ばせる。こんな状況にヤケもクソも無い。
「一からお米を作ります! ですから田んぼから無事な稲穂をかき集めてください!」
自分が持っている分では5人分にすら満たない。まして、捕食霊を相手取るならその百倍、いや一万倍は必要だ。
「お願いします!」
深々と頭を下げる。
自分でも何を言っているか承知しているが、これしか思いつかなかった。
スミレの頭を見上げる霊魂は依然、戸惑いの最中にいた。
彼らも当時農耕に従事していた者だ。一から米を作るとなると一年近くかかるのはもちろん、下手を打つと数年単位に上る大事業だ。快諾できる要件では無い。
皆が皆の反応を待とうとする、空疎な時間が流れる瀬戸際に一つの霊魂が返事をした。
「もちろん、僕はやるよ!」
学校で追いかけた件の霊魂である。
死んだ時期が早く、当時の労働可能年齢の十歳が満ちる前に命を落とした。稲作の気苦労など、話に聞いた程度しかない。
しかし、その声が巌咲の霊たちを奮い立たせた。
もとより人に頼っている身、いやだどうだの言っていられる状況はとうに過ぎている。
「私もやります」
「オラもだ」
「まだまだ青い奴にゃ負けられん!」
霊魂が活気盛んに騒いでいる。霊の周りのモヤが、それまでの青から橙色に変化した。
竹が燃えて、祝福するように、パチパチと大きな発破音を轟かせる。
「いくぜ嬢ちゃん!」
「戦の時間だ!!」
顔を上げたスミレのまなじりからは涙がこぼれていた。
「ありがとう……ございます!」
勇猛な巌咲の霊たちはすぐに作業に取り掛かる。
被害を避けた稲穂を探す者、灰と化した水田を再び使えるように更地作業をする者、離れた河川から水を引く者、田を起こす者、肥料を作る者、田植えをするための苗の準備をする者、やることはたくさんあった。
田を起こし、苗の準備が整ったら田植えをし、虫や病気から稲を守りながら育て、燃え残った灰を原料とした肥料を撒き、水抜きを行う。田んぼがよく乾いたら収穫し、乾燥を待つ。米が食べられるように加工し、給食室の大釜で大量の米を炊く。
スミレたちは、これらの工程を時間にして1年半で完成まで持っていった。一から作る想定にしては異常とも言えるスピードである。
「よし、出来たぜ嬢ちゃん」
老齢な声がスミレを呼びかける。
手のひらに収まらないほど大きなおむすびがいくつも出来上がっていた。
味見を勧められて、一口いただく。
「美味しい……!」
過去にエタと収穫した時より、同じお米と思えないほど美味しい。
「やっぱり、自分たちで作ると味が格別になるわね」
年増な女性の霊魂が微笑んだ。
「さあ、行くんだろう? あの桜のもとに」
ひなびた男性の声にスミレは頷いた。
もちろん、目的は忘れていない。
あの捕食霊が殺されず成仏できるように、欲望を満たしてやらねばならない。
「学校へ戻ります! お釜も持って来てください!」
燃え残った灰体を帯びる学校への道をさか上る。
スミレは一心不乱に走るが、やはり気残りが拭えなかった。
エタ……エタはいまどうなっているんでしょうか‥…もう私のことを見限ってどこか別の場所に行ったのでしょうか。いや、そもそももう……。
マイナスなことしか頭に浮かばない。本来なら数時間で終わるはずの作戦が一年以上も長引いてしまった。生きているのか死んでいるのか分からない。分かりたくなんか無い。
「桜の木が見えたよ!」
先頭を走っていた男の子の霊が叫ぶ。
はるか遠くからでも妖桜と捕食霊が視界に捉えられる。大きく枝を振りかざしているように見える。
白塗りの校舎は瓦礫の山に変貌し、痩せこけた地面は赤い液体で潤っている。
違和感は予感に、予感は確信に変わった。
より悪い方向へ。
「エ……タ……?」
そこにはウロボロスの蛇のように互いを貪り合う血に塗れた修羅が睨んでいた。