現代「イザキとドリー」
瞼の裏は闇が広がるが、徐々にその視界は開けていった。
目覚めるとそこは、自分が最初に村に来て与えられた個室のベッドの上だった。薄い壁に暗い照明、ただ雨風を凌げるだけの一室。だが、いまの世界では家があり一人になれる空間があることがこれ以上ない幸せだ。
「はあ、俺、なにして」
右手を照明にかざすと、記憶がゆっくりと戻ってくる。
村を訪れて一ヶ月、俺はこの村にあるだろう感染症の正体の手がかりを求めて潜伏していた。しかしこの地域を訪れた時、既にこの僻地でコミュニティを築かれていたのは誤算だった。そして、ついに感染症の諸悪の根源となった人物の日記を手にしたのだ。
コト。俺の見知らぬ母。
父が感染症で息絶える寸前に伝えてくれた事実。
「お前の母の日記を探せ。そこに、このパンデミックの全容が書かれている」
頭の中にこびりついて消えない、弱った父の必死の訴え。
俺は日記の中身を確認し、そして、村の一員に見咎められたのだ。そのあと体調が悪くなり、意識が混濁していった。
部屋の扉が開き、中に入ってきたのは中肉中背の目つきの悪い男だった。
「ドリーさん」
彼の名前はドリー。海外綴りを彷彿とさせるが、彼自身はれっきとした日本人だ。ドリーが生きていた時代は遺伝子工学が盛んな頃で、珍しいものを良いものとして扱うのがブームな時期だった。その名残で名前も日本らしくないのだろう。
「失礼なこと考えたな、お前」
思わず慄く。ドリーはこういう勘の鋭い所があるので接し難かった。
「おれ、なにして」
ドリーはベットの近くに腰掛けた。
「倒れたと聞いた。お前、あのくそ狭い書庫に潜り込んだんだって」
とぼけたつもりだがすべて筒抜けらしい。
「なら、全部知ってるんだな」
俺はかぶっていた猫を取っ払うと、ドリーは嫌な顔つきで鼻で笑う。
「村に来たときからお前は胡散臭いと思っていた。東京の人間が、わざわざこんな辺境の村に逃げてくるわけねえってな」
「そうだ。俺はあの日記が欲しい。よこせ」
「自分の立場ってもんがわかってないのか。馬鹿は嫌いだぜ」
ドリーの手にはあの日記が握られていた。思わず奪いおうと腕を動かす。しかし、体が思うように動かず前のめりに上体が倒れただけだった。
「よこせ、それを」
「呆れたもんだ。その格好で叫んでたら窒息死するぞ。忠告しておくが、無理に体を動かそうとすると感染症の進行が早まる。これは確かだ」
藻掻いていたからだが恐怖で固まり、ドリーは乱暴に仰向けに倒す。
「はあ、やっぱり。自分たちだけ感染症から逃げようって魂胆だな」
「何言ってんだ。もう世界中もれなく全員が感染してるっつーのに」
「解毒方法が載っているはずだ。感染症で世界を支配しようとした奴が、対処法を作っていないわけない」
疑問ではなく確信めいた語気のイザキに、ドリーは冷たく接する。
「へえ。お前はそれを手に入れてどうするんだ。売るのか、日本に。それとも海外に。きっと億万長者だ。札束で積み木ができるぞ」
いまこの世界情勢では紙束はなんの意味も持たない。国も正しく機能しているところが数か所で、ネットもなくみなが分断されている。信頼の元に成り立つ紙幣すら意味がなく、価値のある貴金属はすでに一般市民の手元には届かない。
「馬鹿にしやがって」
「恨み言を言ってすっきりしたらこれまでのことは全部忘れて、この村で暮らしていけ。シティボーイに田舎暮らしは馴染まないが、住めば都だ」
もう都会も田舎も区別がつかない。人はすっかりとなりを潜めてしまっている。
「父さん」
「なに、父親がいたのか。さっさと呼んでこい」
「父さんは、感染症にかかったんだ」
沈黙が流れる。
「お気の毒に」
俺はドリーを睨んだ。
「対処法があれば、死なずに済んだ。たった一人、俺を育ててくれた人なのに」
何度悔やんだかわからない。
ドリーが日記を広げて見せてくる。そこには2022年3月8日とタイトルが書かれており、あとは単語の羅列、落書き、締まりのない字で汚されていた。
「こいつ、字が汚いだろ。俺も最初見たとき驚いた」
「読めるところがまったくない」
ドリーは乾いた笑いを溢した。
「そう言ってやるな。最初だけさ、ここから段々丁寧になっていくんだ」
文字を追う目はどこか寂し気だった。
「亡くなったお父様に報いるためにも、日記は読んでやる。その手じゃ読めねえだろ」
「死んじゃいない」
ドリーの顔が怪訝になる。
「さっき感染症にかかったって」
「感染症にかかって、一本の樫木になったんだ」
「ちゃんと変化したんだな」
あっけらかんとした言い分に、動かない手の代わりに体が震える。ちゃんと、だなんて。ちゃんとしていたら、木でもなんでもなっていいってのか。
「一本の木だぞ。動物ですらない、コミュニケーションすらとれないんだ」
「普通は体が変化しきれなかったり、中途半端になることの方が多いだろ」
俺が抗議してもドリーは平然としていた。どうやら人の心がないのか、単に鈍い男なのか。
「それは確率の問題でだ。どっちにしたって元の生活には戻れない。俺だって」
反論を続けようとしたところで、ドリーが遮るように首を振った。
「とにかく。お前はコトを知りにここに来た。俺が日記を読んでやる。喋るな。手以外に舌も使えなくしてやるぞ」
ドリーならしかねない。俺は黙りこくったのを見て、ドリーは日記に目を通す。
「ま、話すって言ってもあの朝からしかない。わからないことがあっても黙ってろ。黙って聞け。わからないことを聞いて答えてもらえるほど、世の中甘くない」
そうだろ、とドリーの瞳は暗い光が宿った。もし彼に動機があれば、人でも簡単に殺してしまうんじゃないか。そう思わせる、強い意志の光が。




