2022年3月8日「ミツハとコト」
カートを引いて十数分、ようやく白い光源がみえてきた。
光の中をまぶしさに目を細めながら進み、コトは陸地に辿り着く。
抜けるような青い空に、赤いレンガで舗装された町並み。人々の賑わいの中には、シックな色合いで作られた店が並んでいる。人垣の顔ぶれの中には陸地や元島民はおらず、外部から交通機関を通しこの地帯に来た来訪者ばかりだ。
そんな賑わいのなかに、汚れた作業着の自分は場違いだ。恥ずかしくなってしまうが、奥にある研究所に向かわなければならない。
「すいません、荷物通ります」
会釈を交えながらできるだけ明るい声で人の群れを縫う。みな自分たちのことで夢中のようだが、コトはそうではない。
今日は修学旅行生と、海外からの取材陣、他にもビジネスで来た風体の人たちが見受けられた。繰り返す毎日の中で、人を観察することぐらいが代り映えのあることだった。
「Excuse me.」
声に振り替えると、背は優に1.8メートルあるだろう日の焼けた男性に声をかけられる。
「はい」
笑顔で答えるが、コトは内心日本語以外で声をかけられることには慣れていなかった。だが、肌の焼けた彼が班長に似ていて、少し緊張がほぐれる。
「Amenomi Ke,kenkyujo where?」
運が良かったのか、コトは内容を聞き取れた。コトは自分が向かうこの町で一番大きなドーム状の研究所を指さす。相手の男性がお礼を言って去り、いざ自分も向おうとしたとき、再び声をかけられた。
「はい、なんでしょう。あ、鈴来さん」
走ってきたのは見慣れた男性。鈴来老人の息子だった。年配だからか走った後の息が荒い。
「やあ、元気してたかな。今日は区役所の用できたんだよ。会えてよかった」
この町、昔は村だったが、雨呑研究所が建設されて一気に賑やかになった。遺伝子工学を世間に広めるため、積極的に取材や見学を執り行い、いまでは観光スポットになった。
「鈴来じいちゃんは元気ですよ」
「そりゃよかった。ごめんね、いつも迷惑かけて」
じゃ、と言って去っていく。
雨呑研究所がすべて変えてしまった。
自然豊かな村は三十年前にこの一帯を研究エリアに変え、仕事が増え、過疎化した島からはさらに人がいなくなった。学校も母もなくなり、コトはここ二年作業着しか着ていない。
すべてが悪い方に向かったわけじゃないと自分に言い聞かす。
町の入り口に、大きな看板で『CHANGE THE ■■■』と書いてある真新しい看板がある。研究所が世界から病を消すと豪語し、君は何を変えるかと訴える宣伝用看板だ。
全国の人たちが、遺伝子工学や最先端を走るこの雨呑研究所に熱い思いを持っている。それが、コトにはあまりにも寒々しく感じた。
「なにも変わってほしくない」
人の少ない研究所の裏手にいけば、研究所が二年前から飼い始めた柴犬が迎えてくれる。毅然と寝そべる犬の腹を撫でり撫でりしながら、受け取りの研究員を待つ。
チャイムをもう一度鳴らし、背後を振り返れば修学旅行生が遠くでたむろしていた。
派手な髪色にはっきりとした目鼻立ちのグループと、地味な黒髪の生徒たちに分かれている。着ている制服は同じだが、遺伝子的にデザインされたのがどちらかは明白だった。自分があちら側の人間だったら、一体どっちにいただろう。
「露骨だなあ。お前もそう思うよね、まろ」
まろは黒いお目目をぱちっとさせて、じっとこちらを見るだけだ。
「あふあふ」
「わかんないよな、まろは」
「このわんちゃんかわいいね」
突如ぬっと聞こえた声に振り向くと、赤毛の長髪が特徴的な少女がいた。コトと同じぐらいの年齢なのだが、微笑まれると華やかな気分になりときめいてしまう。
「あ、あの、修学旅行生さん、ですかね」
「え、違うよ。制服着てないじゃん」
あははと笑うと余計に空気が和むのだが、コトは犬を撫でていた手を止めた。
「関係者以外立ち入り禁止ですよ」
「怖い顔しないでよ、バイトの面接受けに来ただけ」
雨呑研究所のバイト、そんなのあったか。強張った顔つきで思案するが、従業員や採用に関することはコトも知らない。最近来たといえば、インターン生ぐらいだ。
「バイトって、研究所エリアの売店ですか」
「ちがうちがう。ここ、この研究所」
ますます疑問がやまなくなっていたところ、研究所裏口の扉が開いた。
「コトちゃんお疲れ」
研究所の裏口からまだ年若い白衣の男性が現れる。ちょうど考えていた、インターン生の乾学生が手を振ってやってくる。
「乾、バイトの面接を受ける人こっちにきてるよ」
コトが言うまでもなく、乾の目には手を振る女の子の姿が映った。だがしかし、乾の普段は穏やかな顔が青ざめ、足早にこちらに近寄ってくる。
「きみ、昨日来た子じゃないか」
一方女の子の方はニッコリ笑顔で落ち着いていた。
「はい。裏バイトの面接で」
裏バイト、とコトの眉間にしわが寄る。それは乾も同じで、色白の聡明な彼の顔つきがどよどよと曇って、大きくため息をつく始末だった。
「そんなの研究所で応募してないって言っただろう」
「でもここでしてるって聞きましたよ。裏バイト」
よくそんな大きな声で裏バイトって言えたものだ。しかもさっきは裏なんて言ってなかったじゃないか。実に面倒だ。
コトが不審げに見ていると、彼女はこちらを曇りのない目で見つめてくるので罰が悪くなった。乾学生も昨日余程のことがあったのか、頭を抱えている。
「バイト、ないんだとさ」
コトが気を利かせて退出を促したが、彼女は出ていく素振りを見せない。かといって侵入するわけでもなく動きもしない。
「絶対あるもん」
その自信はどこからくるんだろう。
困り果てたが、年長の乾学生が腰に手を当ててない度胸をありったけぶつける。
「ない。裏バイトはないから。アルバイトの募集もないし、きみ一体いくつなの。そもそも働けるの、えっと、名前」
肝心なところで尻すぼみになる男だ。隙を見つけたとばかりに少女が可愛い瞳で思い切り睨みつけてくる。
「昨日何回も言ったんですけど。ミツハ」
騒がしい研究所と相対的に静かだった裏手に、少女の声が響いた。
「私はミツハって言います。姓はありません」




