2022年3月8日「二人のドリー」
「今日もお仕事お疲れ様あ」
海底トンネルの入り口で、間延びした声の警備員がコトに声をかける。
コトは重いカートを押しながら、警備室で優雅にくつろぐふくふくと育った体の彼にあきれ返った。
「ドリー、また仕事中にお菓子食べてるの」
見た目は明らかにコトよりも年上だが、ドリーと呼ばれた男性は怒りもせずおおらかに笑った。このトンネルの入り口側に常にいるこの男は、研究所の雇われ警備員である。
「へへ。陸地で新しいお菓子が入荷したんだ。コトも食べるかい」
クリアガラスを開けて差し出された菓子袋には、キャッチーな商品名と説明文が添えられている。
「いらない。またお給料で要らないもの買って」
「お菓子は俺の栄養剤だよ。必要経費」
「ドリーはさ、お給料って毎月貰ってるんだよね」
ドリーはお菓子を口に運ぼうとした手を止め、きょとんとした顔をコトに向けた。
「へ、何言ってんだい」
馬鹿なことを聞いたと急に恥ずかしくなってしまい、赤くなった顔を俯いて隠す。
「ああごめん今のなし。ほら、早く点検してよ」
ドリーは重い腰をパイプ椅子から上げた。狭い警備室の扉から大きな体を押し込んで外に出る。そしてボードに何か書き込み、コトに渡した。
「そういや、出口のドリーが言ってたぜ。コトのせいで寝込んだって」
「なにそれ」
コトはマスに合わせて自身の名前を書く。退出者の欄には自分の名前しか書いておらず、最初に書いた時と比べて字が美しくなっていってるのを実感した。
「コト、事故にあったろ。少し前。でもぴんぴんしてて、事故当日に廃棄物運搬をしにこのトンネルを通ったの覚えてるか」
覚えている。事故にあってショックで気を失っていたが、目覚めたときに午後だったので急いで運搬を行ったのだ。その時に、目を離していた隙に勝手をするなと班長に怒鳴られたのを克明に記憶に刻んでいる。
「あー、あったあった。そんなこと」
「あのあと出口のドリーが一週間寝込んだんだよ。知ってるよな」
「もちろん。今日は来てるの」
「そう。それが問題でな。自分が寝込んだのはコトのせいだって。工場の付着物が、俺の体に害をなしたってカンカンなんだよ」
「言いがかりだよ」
そうはいったものの、コトの内心は少しびくついていた。自分は問題なかったが、イワサは事故当日から丸二日意識を失い、失明するまでに追い込まれたのだ。
心配性のドリーに気取られないよう、気にしていないそぶりをしてみせる。が、出口のドリーが休んでいたことに多少なりとも気にしはしていた。
「陸地の試験病棟ではちゃんと休んだんだけど」
出口のドリー、言い方はおかしいがその名の通りこの島の出入り口は「二人」のドリーが番をしている。島の入り口にいるドリーと、トンネルの中間で出口を担当するドリー。
二人の見た目は対照的だが、この島に来た時から、自ら彼らはそう名乗っていた。
ドリー、そういえばどこかで聞いた気がする。
「なんだったっけ」
「はい、通っていいよ」
現実に引き戻され、ハッとする。
「行きづらいなあ」
「出口のドリーも同族のよしみで許してくれるよ」
「それを言うなら同郷のだよ」
ドリーはきょとんとしたが、合点がいったのかうんうんと頷くだけだった。
コトは重いカートを押しながら、暗いトンネルを進んでゆく。
ドリーはコトのことを言い間違えたが同族、同郷と言ってくる。コトはドリーとの付き合いは二年前島から少ない住民が退去し、工場が設立されたころに出会った。あまり昔からの馴染みだという意識はない。
「とまれ」
トンネル内に木霊した低い声に思わず体が固まる。
横を見れば、枯れ枝のような足を台座に乗せた、仏頂面の窶れ顔の男がこちらを睨んでいる。警備室の仕切り越しでも、その眼光の鋭さに身が縮まる思いだった。
「ドリー、元気してたかな」
恐る恐る尋ねるコトに追い打ちをかけるように、ドリーの目がギラリと光る。
「ドリー、さん。だろ」
出口を担当する、あの朗らかな彼と同名で呼ばれる男だ。
名前は同じでも、姿かたち中身までもが対照的だ。仕事は放任的でのほほんとした入り口の彼と、この男は月とっすっぽん。
仕事上付き合いを怠るわけにもいかず、コトはゆっくりと彼に近づく。
「ドリーさん。通行許可をお願いします」
ドリーはこれ見よがしに大きくため息を吐き、立ち上がって警備室から出てくる。
入口の時とは違い、簡単なチェックをしているだけなのだがどうにも空気が重い。
「汚いな。お前の職場では搬入道具に埃を被せておけってルールでもあんのか」
白手袋に包んだ手でカートの装置をなぞれば、微かに指先が灰色に汚れた。
「すいません。すぐ拭きます」
腰に巻いたタオルで装置を拭く。
「コト。お前の不注意が周りに大きく迷惑をかけることをもっと自覚したほうがいい」
「はい、はい。気を付けます」
ドリーはコトが自分の前にかがんだのをいいことに、尻のポケットからはみ出ていた封筒を引っこ抜いた。
「これはなんだ」
反射でドリーの手首を強く掴んでしまう。ドリーは思わず身を引いたが、すぐに我に返り振り払う。
「あの」
「これも島外に持っていくのか」
「はあ、まあ」
ドリーは封筒を軽く振った。入っているのは紙だけのようだ。しかし封筒の真ん中が、不自然に小さな凸が出来ている。
「中身、確認するぞ」
「え、あの」
上ずった声にドリーは眉を顰める。
「なにか問題があるのか」
疑わし気な視線を受け、言いよどむ。
「それ、私のじゃないんですよ。頼まれて、それで、ポストに入れてって」
え、だかう、だかわからないことを言うコトを前に、ドリーは封筒を開かずに手で扇にして仰ぐ。
「お前は、そいつの言いなりになるのか」
そいつ、と言われた瞬間班長の顔が思い出される。たしか班長はいつものぶっきらぼうな調子ではなく、真剣な顔で「投函してほしい」と言ってきた。
研究所から遠いポストに、と。
これは研究所に所属するドリーたちには見つかっちゃいけないものなんじゃないか。そもそも、何を入れたんだ班長は。
「言いなりって、そんな大げさな。ただの頼まれごとですよ」
自分に言い聞かせるようにただのと付け加えた。
「小さなミスが大きな失態を引き寄せる。コト、お前は自分が所属させて頂いている組織の不利益になるようなことは、決してしないよな」
空気が重くのしかかる。
「寝込んでたか何だか知りませんけど、私のせいにして突っかかりたいならどうぞご勝手に。これは私が頼まれたものですので、変なものじゃありません。保証しますよ」
相手が出口のドリーだからか、食って掛かられて売り言葉に買い言葉なのか、はたまたドリーの言ったことが的外れではなかったからか。
コトが掠め取ろうとした封筒を、ドリーはひらりと躱す。
「答えろ。俺は、それだけが知りたい」
妙に目が爛々とした彼に、コトは怖気ずくが踏ん張って封筒を引っ掴んだ。
「私は、私が出来ること、精いっぱいするまでですよ」
ドリーはコトの言葉を黙って聞き入り、きつい目がコトの全容を映す。
十四にしてはしっかりした背丈。灰色の髪は華やかとは言い難いが、黒い東洋人特有の目には虚ろさはない。昔、髪の色が違うと同級生に仲間外れにされていたと聞いたが、そんな気弱な面影はない。
「へへ」
「気持ち悪いなあ」
「お前の前で笑うんじゃなかった。ほら、さっさと行け」
コトは封筒をポケットにしまい、陸地へと続く先に進んでいった。
やがてカートの車輪が聞こえなくなり、ドリーは警備室に戻って机の下を漁った。空きっぱなしの扉が頼りなさげに軋む。そして、ドリーは手に大きなバールを引っ掴み、今度は島の方に向かって歩いて行った。
「できることを、せいいっぱい。それしかねえよなあ」