現在「伊崎先生とその娘」
「お前は誰だ」
イザキが尋ねても、目の前の婦人は頬に手を当てて暢気に答えるだけだ。
「貴方こそ、思い出したかしら。自分が何者か」
「黙れ。壮大な法螺話を聞かせやがって。そんな、本人でしかわからないような嘘じゃないか。今の話に信憑性はひとつもない」
イザキは怒りと恐怖でベッドから抜け出し、部屋の扉を開けた。そこには銃を構えた大男が立ち塞がっている。
「騒ぐんじゃねえぞ。伊崎」
伊崎は手を上げて後ろに下がり再びベッドに腰かけた。男の右耳は、ネズミに齧られたような跡が残っている。
「乱暴ね貴方。銃なんて」
「俺に言われてもなあ。銃を考えた人間が悪い」
「お前、八城か」
大男はにやりと笑うが、銃口は俺の心臓を狙ったままだった。
「思い出したのか。最後に見たのは島だったな。俺をドリーに呑ませやがって。死んだかと思ったぜ」
「ドリーにもちゃんとヤエミの作用はあったの。擬態っていうの。一人の人間を呑めば、その人間になりきれるわ」
「じゃああんたはドリーか」
婦人と八城がきょとんとする。
「なにを仰ってるの」
「すっとぼけるな。さっきから人間が入れ替わり立ち代わり、足音が常に一つだった。イワサやドリー、辺田、あんた。人のいる気配も全くしない。」
「すげえなお前。見直したよ」
婦人の口から男の声がする。そして婦人の顔がぐにゃりと歪み、骨格や肉が不自然に動く。そして婦人がいた席には、出口のドリーがいた。
慄くイザキを八城はあざ笑う。
「はじめて見たらそうなるわな。いやあ、化け物じみてるぜ」
「調子に乗るなよ。八城。お前はリーダーのストック役として残っているに過ぎないんだからな」
イザキは悲鳴を上げて水の入った瓶でドリーの頭を殴った。昏倒したドリーだが、再びその容姿が変わり赤毛の女性になる。すると、飛び散った破片で切れた血液が止まる。
「ああ、痛いわね。八城、あんたちゃんとあたしを守りなさいよ」
今度はミツハの姿になり、何事もなく立ち上がって八城を叱った。
「急に発狂されて動けるかっつーの」
「なんだ、なんなんだお前」
「あたしはね、小さい頃から傷の治りが早いの。遺伝子的にね。だから親にボコすか殴られたかは知んないけどさ」
「そんなこと聞いてるんじゃない」
すると今度はミツハが、イワサの姿になる。
「俺は耳が良くなった。それはもう。そういう俺たちの遺伝子の力が、知らず知らず幼いコトを助けたってわけだ。うそつきのお前の父を語る、辺田と違ってな。何も覚えていないのか」
「ドリーの中に、複数人いるのか」
イワサの体が縮み、そこにはあのこうるさい婦人が現れる。
「貴方って最初に聞いたことすぐに忘れちゃうのかしら。ドリーは一人しか呑めないって言ったでしょう」
「じゃ、じゃあ」
「印刷機の話はしたわね。彼女の力はね、本当はより強く遺伝子の力を引き出すものだったのよ。あの時、もっと強くこちらに勧誘していればと悔やむわ」
「じゃあ」
「ドリーのヤミエで得た力を、より強く引き出したのは誰でしょうか」
すると肉塊は膨れ上がり、現れたのは黒い短い髪の女性だった。その双眸を見つめると、頭がくらくらした。
「まどろっこしい真似をするな。ねずみ」
八城が小突くと、その女性はニヒルな笑みを浮かべた。
「その言い方やめてくださいよ。仮にもいまはリーダーなのに」
「コトか」
名を呼ばれ、女性は椅子に座って身を寄せた。
「お久しぶりです。父さん」
話の中で聞いていた十四歳の少女とは思えぬ成長した姿に、イザキの手は震えた。聞きたいことは山ほどあったが、何から話していいかわからない。
「貴方は、誰なんですか」
「あれだけ話したのに、まだ何も思い出せないんですか。弱ったなあ」
コトが眉間に手を当てる。その時、部屋の外で獣の咆哮が響き、窓を見れば巨大な目玉がこちらを覗き込んでいた。
「フミですよ。話の中に出てきたでしょ。普段は山に隠れているんで、ご覧になるのは初めてですか」
「なんで、俺を、どうするつもりだ。貴方は何で、こんなとこで、こんなやつらとつるんでるんだ。何がどうなっているんだ」
「色々あったんですよ。父さんも、色々あったようで」
コトの黒い瞳がイザキを射抜く。
「俺は、雨呑のスパイなんかじゃない」
「まさか。実の父を疑うなんて。だが、喋ってもらわないとこちらとしても困ります。念願待った、貴方の帰還ですから。フミも待ちかねて、腹を空かせていることでしょう」
振り返ると怪物はいないが、屋根の上を歩く重い足音に、イザキは身震いをした。
「知っていることは全部言う。頼む、殺さないでくれ」
「物騒なこと言わないで。父さん、ちゃんと目を開けて現実を見ないと何も手にできないんです。変えるためには、力がいる」
コトは日記帳を開き、指で文字をなぞった。
「目を開ける準備が出来たら、始めましょう。きっと長くなりますから」
遠くで雷が落ちる。
始まりとも終わりとも区別がつかない、深い夜が始まろうとしていた。




