2022年3月28日「コトとフミ」
「所長、所長」
ひっかきまわされた悲惨な部屋の中に、所長が蹲っていた。コトと伊崎は目撃した化け物に気づかれないよう屋敷に侵入し、震える所長に駆け寄る。
「辺田所長、なにがあったんです。あの化け物は」
「娘だ」
所長の言葉に絶句したが、屋敷の壁には見たこともない大きな傷がある。肉食獣に爪とぎされたような、痛々しい傷だ。
「フミが、え、フミが」
「ヤエミの作用があんな風に働くなんて。すまない」
呆然とする伊崎を置いて、コトは屋敷の中に散らばっている薬品箱を漁る。
「なにしてるんだ。コト、所長を連れて逃げるぞ」
「あんたらだけ逃げろ。その前に、麻酔薬とか睡眠薬教えて」
伊崎はコトの肩を掴んだ。
「もう手遅れだ。友だちは諦めろ」
「私は諦めない。フミは優しい子なんだ。いまはショックで、話せないだけで」
咆哮が島中に響く。誰がどう見ても、あの化け物に立ち向かおうとは思わない。ましてや、話なんてする奴の気が知れない。しかし、彼女の目に半端な決意が宿っているわけではないのだ。
「いいか、この屋敷にだって爆弾が仕掛けられている可能性もある。急げ」
伊崎が意を決し、薬品箱から薬品を取り出し、注射器に装てんする。渡すかどうか迷う伊崎の手から、コトは注射器をとった。
「私がやる」
「もし君を失ったら、せっかく会えたのに」
コトは伊崎の肩を叩き、階段に足をかける。
「もうそこまでフミがきてる。所長を連れて逃げて、父さん」
コトは振り返らず階段を昇っていく。窓から岩の様な厚い鱗を持った手が侵入し、コトは作業着に傷をつけながら走って行った。壁に体を押さえつけられても、血の力を使って強引に昇る。そして、窓のテラスに到着した。
いつの間にか雨が降っている。コトは、目の前にいる巨大な岩の爬虫類を見据えた。手には麻酔の入った注射器を携え、大きな鉤爪持つ化け物を前に笑う。
「戻ってきたよフミ。遅かったって怒ってるかな」
フミと呼ばれた化け物は唸るだけだった。語り合った優しい姿は何処にもないが、コトは彼女の双眸にあの頃の黒い瞳を見た。
「フミの目はいつだってきれいだね。大好きだよ。どんな姿でも、ずっと」
コトは声を張り上げてフミに向けて麻酔銃を向け走るが、化け物の体がひょいとかわして大きな手がコトの腹を裂こうと襲ってきた。その時、幸か不幸か設置されていた屋敷の爆弾が爆破し、爆風に押されたコトの体が化け物の懐に飛び込み、その眼球に注射針が刺さった。
コトが力を振り絞り薬品を注入し、化け物ごと海の底に落ちていく。
遠くで、終わりを告げるように落雷が落ちた。




