2022年3月28日「ミツハとコト」
3月28日の夜は、それはもう賑やかだった。雨呑に研究所が設立され、やがて各地に拠点を置いたが出発点はこの村だった。村の付近は発展し、今も夜の七時を迎えているのに車の通りが多い。島だけが暗い闇に沈んでいる。
村の付近、駐車場の奥まった林に一台のミニバンが侵入していく。やがて、少し開けた土地に大男を発見すると停車した。
「八城さんですか」
車の運転席から出てきた若い男を見て、八城が咥えた煙草を離す。
「誰だお前」
「あたしの彼氏」
助手席から出てきたのは、脱色しかけた金髪の妊婦だった。
「いま五か月目だったか。こんなところに来ていいのかよ」
「お互い様だよ。金はいつだって必要だろ。それに、こいつに仕事任せらんないし」
妊婦が若い男を軽く小突くが、男は緊張して固まっていた。彼は二人の取引もろくに知らず、女性の言うままに運転役を任されたのだ。
「こいつ、口は堅いんだろうな」
大男の八城の影に震える。
「良い奴だからなにも言わないよ。な」
妊婦に言われるまま男は後部座席の扉を開け、そこから男女含めた三人の子供が姿を現す。身なりはどれも汚く、目には生気はなかった。
「遺伝子カスタムなし。下から十二、十三、十五か。十五はいま過剰供給だから高値はつけれん」
妊婦に言われるよりもすぐに子供の状態を見抜く。妊婦も彼の言い分に何も言うことはなく、自宅で作成した請求書を渡した。
「雨呑はいま鰻昇りだろ。色を付けておくれよ」
「そうは言ってもな。俺はいま雨呑の使い走りだから何も言えん」
八城は研究所から用意された金を渡す。
「あんたのことだから少し自分の懐に入れてるんじゃないかい。それで前の雇い主にしめられて、落ち延びたんだ。意地汚い蝙蝠野郎ってね」
「それ以上言うな」
妊婦が十五の子供の背を叩くと、子供は何も言わず八城の元へ歩いていく。他二名もそれに続いた。
「きゃみちゃん、子供になにしてるの」
若い男が、妊婦のきみゑにおずおずと話しかける。男の目には、今目の前に起きていることが理解できずに、つい口走ってしまった。
「仕事じゃん。きゃみの仕事見たいってぺがちゃん言ってたっしょ」
ぺがこと天馬はそれでも首を縦に振らない。この現場で起きていることが、人身売買だとわかっていても、その平然とした態度に収拾がつかなくなっていた。ましてや、自分の子供だ。
「おい、本当にひとつも説明してないで連れてきたのか」
きみゑは天馬に笑顔を向け手招きをする。天馬は同棲相手の彼女に両肩を掴まれ、細腕なのに恐怖で悲鳴が漏れた。
「いいことしてるんだよ。これで、もっと生活が良くなるんだし。きゃみはお金が貰えて、向こうは商品を使って仕事ができる。これの何がいけないの」
唖然とする天馬に八城は追い打ちをかける。
「遺伝子カスタム、お前もしてるだろ。だったら文句言える立場じゃねえ。あいつらの犠牲のお陰で、お前はその目と口が貰えたんだ」
天馬は思わず自身の顔に触れる。八城の言ったカスタム内容は、そっくり当てはまっていたのだ。彼の鋭い観察眼と雨呑研究所の恐ろしさに汗が噴き出る。
「ぺがちゃんは頭もいいから誰にも言わねえよ。それよりも、ミツハはどこ」
きみゑの聞いたことのない低い声に、天馬はどきりと心臓がはねた。本気で怒ったときの血走った目に、八城はのんんびりと後ろの茂みを確認してやりすごす。
「まだ準備に時間がかかってる。もうちょい待て」
八城が手のひらを見せ、きみゑはミツハの居場所の情報提供料として金を受け渡す。きみゑの目がふと八城の右耳に注目し、笑いが漏れた。
「ぷ、あんた、その耳なに。チーズみたいに齧られてやんの」
八城の右耳は欠け、上の分がごっそりとなかった。八城は忌々しそうに唇を噛む。
「ネズミだよ。化けネズミにな」
その様を茂みに隠れてみていたのは、赤毛のミツハだった。必死に逃げてきた母の存在が今目の前にあり、八城に騙されて連れてこられたのだと確信した。しかし、動けなくなっているのも事実。
「嘘でしょ、ママ」
ふいに肩を掴まれ悲鳴を上げそうになるが、そこにいたのはコトだった。いつもの作業着を着て、真剣な顔で人差し指を口に当てている。
「落ち着いて。ここから逃げよう」
ミツハは安堵と共に首を振る。
「に、逃げたらあたし何されるかわかんない」
「逃げ続けたらいいんだよ」ミツハの視線は、八城の傍に移動した三人を追っている。「あれ、ご兄弟なの」
ミツハの声は酸素を求める鯉のように必死だった。
「ほかにもいっぱいいる。家に」
「今は逃げるしかない。あの人の所に行ったら、あんな風に売られていくかひどい目に合う。ミツハだけでも逃げよう。その為に、雨呑に逃げてきたんでしょ」
コトは彼女の母がどのような仕事をしているのかは詳しく知らない。ミツハと同じように、この茂みからこっそりと取引を見ただけだ。子供をモノのように売る大人。それだけでも吐き気がする。
「ここに来たのは、ここしか知らなかったからだよ。逃げようとも思ってない。ただ、少しの自由とお金が欲しくて。また、帰るつもりだった」
茂みから出ようとする彼女の手を掴む。
「行っちゃだめだ」
「コトには兄弟はいるの。家族は、誰かほかに。居ないと、私の気持なんかわかんないよ。でも」
ありがとう、とミツハはコトの手に自身の手を重ねて茂みから出てきた。自身の元から逃げた娘を前に、きみゑは身重の身でありながら、彼女を目いっぱい殴りつけた。
「この親不幸者が」
殴られる前に反射でミツハは頭を抱えた。身に沁みついた動作だったが、母の拳は容赦なくミツハの体を痛めつける。八城は傍観し、天馬は彼女の気迫に恐ろしくて寄りつけない。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「売る前に出ていくやつがあるかい。誰が育てたと思ってんだ」
長い彼女の髪を引っ掴んで上向かせる。ミツハの顔は歪んで奥歯を噛みしめて震えていた。
「戻るつもりだったんです。お金を集めて、お母さんから、兄弟を買おうと思って」
「なに訳わかんないこと言ってんだい」
「これで、兄弟を自由にして貰えませんか。私はずっとお母さんに尽くします」
ミツハの手に握られていたのは、工場以外にもかき集めたであろう金銭だった。相場がわからない彼女なりに道中かき集めた金だ。八城は一目見て、こんな金では子一人買えないだろうと踏む。
「子は親に尽くすのが務めさ。八城、さっさと餓鬼を研究所に連れていきな。こいつは今ここでやきを入れないとねえ」
項垂れるミツハを兄弟は立ち尽くして見ている。誰も何も言わない、言えないのだ。表情一つ異変があれば、管理者であるきみゑに因縁をつけられる。
八城はポケットから煙草をくゆらせた。きみゑがしびれを切らしてにらみつける。
「なんだ。俺は何も言わねえ。さっさとその娘を好きなようにしな」
きみゑの目が煙草の煙を追う。
「あんた、煙草吸うんだっけか」
「吸っちゃ悪いかい」
煙草の細い煙は暗い空に吸い込まれる。きみゑが目ざとく跡を追った。
「あの時と同じだ。雇い主を裏切ってとんずらこく前のな。あんたはやることなすことセコイ上に、臆病だ。焦ると、煙草を吸う」
八城はすました顔できみゑを見るが、首の裏には汗をびしょりとかいていた。肺に煙をしまいこみ、大きな白い息を空にふかす。
「今日のは、そうじゃねえ」
言い切る前に、大きな爆発音が夜空に赤い火花を散らして鳴り響いた。
その音と同時に、八城は近くに置いてあったバイクに手をかけて乗る。しゃがみ込んで耳を塞いでいたきみゑが叫んだ。
「おい、今のはなんだ。あたしの商品置いてってなんのつもりだ」
バイクのクラッチをひねりながら、八城はにやけた顔で欠けた耳に手を当てる。
「もう雨呑は終わりだ。あばよ」
そのまま颯爽とバイクを走らせ去って行く。気を取られているうちに、きみゑは肩を強い力で引かれ背後にいる天馬がキャッチした。目の前には、ミツハに駆け寄るコトがいた。
「ほら、立って。ミツハ」
「あんたアタシの娘になに触ってんだい」
「うるせえんだよ黙ってろ」
コトが腹の底から怒鳴りつけ、口から微かにのぞいた鋭い犬歯に人ならざる恐怖を抱く。ミツハは乱れた髪を直すこともせず顔をきょろきょろさせていた。
「い、いまの、爆発」
「雨呑はこれから崩壊する。ミツハ、兄弟を連れて逃げな」
「コトはどうするの」
「やらなくちゃいけないことが、まだ残ってるから。雨呑に向かう」
ミツハは背後を振り返った。爆発音がけたたましく鳴り響き、威力は地面を揺らすほどだった。立っていられず周りはしゃがみ、コトは、怯えるミツハの肩を抱く。
「私たちだけで生きていけないよ」
「ミツハはここまで逃げてきたんだから、できるよ。変われるよ」
コトの手からぬくもりが伝わる。
「一緒に行ってもいいかな」
コトは悲しそうな顔をしたが、その言葉を聞き逃さなかったきみゑが叫んだ。
「行かせない。私の子供なのに」
コトは険しい顔になって睨んだが、きみゑの顔は恐ろしい形相から悲痛な面持ちになった。挙句の果ては大声で泣きだす。ミツハは母の方に歩み寄る。
「それでいいの。よく考えて」
「お母さんは、寂しがり屋なの」
ミツハの顔は慈しみの表情をしていた。切ない、報われない子の愛情に満ちた顔。ミツハはコトの手を掴む。
「ミツハがここに来るって聞いたから、来たんだよ」
「優しいね。ごめんね、さっきの言葉はなし。借りを作ってばっかだよ」
「いいよ。友だちでしょ」
コトはミツハの手を離し、雨呑の手前にある沿岸に向かっていった。そこには一部始終を見ていた伊崎がいた。手には簡易的なスイッチの箱が握られている。
「爆弾のタイミングよかったよ。八城はあのままどっか行ったけど」
「全部見ていた」
あの爆発は伊崎が行ったものだ。個室を出た後、コトは伊崎と八城に会いに行ったのだ。そして八城を脅して地図を奪い、交通量がストップして雨呑の入り口が塞ぐタイミングで合図をさせた。来客を巻き込まない地点の計算は八城に任せたが、伊崎の回路を遠隔で操作する装置を作れたのも素晴らしい。
「さすが超優秀研究員。伊崎先生」
伊崎の顔はこれまでとは違い、精悍な面持ちだった。犬の鳴き声で絶叫した後、目を覚ましたら日記を隅々まで凝視し、記憶が戻ったという。嘘か真かはわからないが、本人はそう言った。そして、コトの所長を村に閉じ込める作戦にのったのだ。
「やめてくれコトちゃん。俺は、回路をいじっただけだ。あとのことも俺に任せてくれ。辺田所長には借りが山ほどある。海外になんて行かせるか」
「私にも借りはあるから。あいつを野放しにしてやるか」
伊崎は彼女の結審に根負けし、ため息をついた。そしてスイッチを頭上において海の中に入って行った。コトは突然の奇行に戸惑う。
「早く。入口は封鎖されている。ほかの爆弾までは回路をいじれなかったんだ。爆発に巻き込まれる前に急ぐぞ」
そういえばこいつは陸地から島に行くのに海を渡ったんだ、と思い至りコトは渋々海に入って行った。




