2022年3月8日「ネズミと八城」
「帰ってくるのが遅いんだよあんたは」
日焼けした班長の大きな体で太陽が隠れる。コトは宿舎の中心にある食堂の裏手で、お腹をすかせながら項垂れた。
「すいません班長」
朝食が始まる七時三十分までには戻ってこれると踏んでいたが、時間の配分を間違え朝食にありつく前に班長に呼び出しを食らってしまったのだ。
「時間を守れないやつは仕事任せらんないよ。今日だって午前から島間運搬の作業だよ。あんたにしか頼めないってのに」
厚い唇から大きなため息がこれ見よがしに吐かれる。
怒られる内が花、フミはそう言っていたがコトは空腹以外で痛む胃には相当応える。
「もう二度と同じことはしません」
「当たり前だよ」
班長はフィルムでパックされたコッペパンと牛乳を二人分コトに渡した。
「あれ、多くないですか」
「貧血気味なんだから、あたしの分も食べな」
帰りの道中ふらついた所為で遅くなったことすらも、お見通しとばかりの言い方だ。ありがたく二人分の朝食を受け取ったが、二本の牛乳瓶間に封筒が一枚忍んでいることに気づく。
「ありがとうございます。班長、これ」
「今日は新人が来るから、出来るだけ早く帰ってくるんだよ」
封筒を差し出そうとした手を無視し、班長は去り際にコトの肩に手を静かに置いた。
「島の、研究所から遠いポストに投函して」
聞き返そうとしたが、班長はそそくさと素知らぬ顔で去っていった。
コトは封筒をポケットに押し込み、朝食をかきこんで午前の島間作業に向けて準備を始める。コッペパンを一つかじったところで、頃合いを見計らったように再び大きな影がコトの目の前を遮った。
「よお、ねずみ」
からかいを込めた呼び方に、コトは胸中で嫌悪感が増した。立ちはだかったのは作業着が限界まで引き延ばされた大きな体躯を持った、三白眼の男。コトや班長、イワサと同じ職場の同僚だった。
「八城さん。おはようございます」
男はコトの日本人的ではない、くすんだ灰色の頭を厚い手で叩く。八城が年少のコトを下に見ていることは明らかだった。おまけに小ばかにしたようなにやけた顔は、見る対象に侮蔑的な屈辱を与える。
「ねずみは朝遊びに行くほど元気なんだなあ。その元気、俺にも分けてほしいよ。最新のトレンド世代は遺伝子的にも優れてて羨ましいぜ」
この人物は班長とは違うタイプでコトは苦手だった。班長のように集団を鼓舞するために嫌われ役になるリーダーではない。彼は狡猾で要領がよく、責任のある立場の作業員ではないこともよくない点だった。そして一番厄介なのが、相手のコンプレックスに鼻が利くタイプだった。
ねずみ、とは彼女の容姿を揶揄している言葉に他ならない。
「私は、肉体的な遺伝子改造までされたタイプじゃないですよ。普通です」
「そうか。あのお屋敷の嬢ちゃんは病弱なんだろ。それに比べりゃお前は十分なわんぱくだろうが」
彼の口からフミの話題が出るだけで気分が悪いが、コトは職場で覚えた愛想笑いで答えた。
「あの子は病気なんですよ。私は健康でよかったです」
「なあ、班長からなんの話されたんだ」
八城の勘の良さには肝を冷やしたが、ポケットに隠した封筒は気づかれていない。妙に鼻が利く彼の視線は蛇の如き恐ろしさだったが、コトは牛乳瓶を一本勢いよく飲み干して平然を装った。
「叱られたんですよ。帰りが遅いって」
「はは。班長も気を使ってんのさ。お前の消えた母ちゃん代わりのつもりなんだよ」
その場を去ろうとした足の歩みが遅くなる。頭に熱い怒りが走ったが、ここで反論したら相手の思う壺だ。振り返らず前に進む。その背中に、八城はあるものを投げた。
「キャッチしろ」
思わず気配と声にその物体を掴んでしまう。中を見れば、自分の顔写真が載っているカードだった。健康保険証と書かれているのを、コトは数十秒かけて読み解いた。
「なんですかこれ」
疑問をぶつけると、コトの反応の遅さに退屈気味の八城が大きなため息をついた。
「お前はさっきまで何を神妙な顔して見てたんだよ。本人確認証だろ」
「これが」
八城はコトに詰め寄り、いかつい顔を近づけた。
「大丈夫かよ。お前が欲しがったから工面してやったんだろうが。これで母ちゃん探すんだろ」
二年前、母が失踪した。
島外の研究所に勤めていた母は、ある日ぱたりと帰ってくることがなくなったのだ。コトは方々を探し大人に相談した結果、島の学校をそのままに設置する工場で働くことになった。
衣食住が完備された環境で二年。母はまだ帰ってこない。
「本当に作ってくれたんですか。だいぶ前の話でしょ」
八城に身の上話を強要され、母の行方を探すなら戸籍附票を役所で取得するのが早いとアドバイスを貰ったのだ。そして、社員証のないコトに身分証明を作ってやると大見得を切られた。およそ一か月も前の話だ。
今は嫌味なこの男が、奇妙にも救いの神に見える。
「お前が証明写真撮ってくるのが遅かったせいで時間食ったんだろうが。俺のせいじゃねえ。いいか、これは偽造有印私文書偽造と言ってだな、お前はもう」
「すぐ行ってくるよ。ありがとう八城さん」
コトは土煙を巻き上げる勢いで走り去っていく。
八城は頭を搔き、仕方なく走り去っていくコトの背中に軽く手を振った。彼の怪しげな笑みには、誰も気づくことはないだろう。
「話は最後まで聞けよ。お前はもう、犯罪者の仲間入りだ」
俺と同じな、とつぶやいた声は森の涼やかな風に攫われて消えていった。