2022年3月27日「コトと遺伝子進化計画」
「所長室だ」
乾学生が思わず声を漏らす。外山はきっと睨んでたしなめ、ノックをして入室した。広いテラス付きの白い内装だ。二人の緊張をほどくように西日がかかり、ソファに座るよう促される。対面した席には誰もいない。
「なんで所長がいないのよ」
外山は小言を言って再び出ていった。
先ほどの異常な空間で高揚した心臓を抑える。コトは終始よそよそしかった乾学生の肘をちょいとつついた。
「な、今のうちにファイルの中身教えてよ。もったいぶるなって」
「知らないって言ってるだろ」
「なんだよ急によそよそしい。伊崎先生のことはすぐ教えてくれたのに」
乾学生がちらとコトを見た。
「そりゃそうだよ。俺、伊崎先生がこの研究所にいるって知って、ここのインターン受けたんだ。俺の大学の先輩。憧れの人だったんだ」
伊崎も伊崎で謎の多い人物だ。記憶も定かではない顔。そんな人物が母と私の写真と持っていたのは、奇妙としか言いようがない。気になる。
「だった、過去なの」
「大学の卒業生講演で見た姿が、すごくカッコよくて。なのに、いざ入ってみると試験病棟にいたんだあの人。患者側で」
「そんな」
コトの記憶では白衣を羽織り、研究者として活躍していた男性だ。働き出してからはめっきり姿を見なくなった。そのあと、乾学生がやってきたのだ。
「研究所で余程ショックなことがあって、幼児退行を起こしてたんだ。俺の理想の男性が、舌ッ足らずで喋る姿を見た時、俺、俺は、なにしてんだって」
乾学生が思い出したのか顔を覆う。慰める間もなく扉が開き、所長と外山が入ってきた。
「先生、試験病棟にいらっしゃるならPHSでお知らせしてください。てっきり所長室にいるとばかり」
所長がまあまあと宥め、二人の前に腰を下ろした。
「おや、乾君どうした。泣いているのかい」
「所長。カンシロウ君を勝手に連れ出してすいません」
近くの椅子で書類整理をしている外山がこちらをギラリと睨む。委縮するコトに、所長は顎髭を撫でつけ笑った。
「カンシロウ、シ、シ、ああ、四号ね。いやいや、そのことで呼んだんじゃないよ」
乾学生と外山の肩がぴくりと動く。コトはよくわからず首をひねった。
「じゃあ、ドリーの件ですか」
「あいつらは廃棄寸前のごみみたいなものだから。気にしなくていいよ。コトちゃんは面白いねえ」
膝を打って笑う所長の様子に、コトも違和感を感じ、頬が引きつった。
「じゃあ私なんでここに連れられてきたんですか」
所長が座り直し、本題とばかりに上体を寄せてきた。
「そりゃあ、こうやってゆっくり話し合いをするためさ。オファーだよ」
頭が追い付かず乾学生を見るが、彼は暗い表情だ。
「あの、私もう工場で働いているんですけど」
「いずれ工場は閉じるんだ。これからは海外に拠点を移すよ。工場も、研究所もね。そこで、君もどうかなと」
ついてこいと言いたいのかこの男は。コトは島での雰囲気の違いに眩暈がした。話についていけない。
「受けといたほうがいい。コトちゃん」
乾学生が助言するが、到底その気に慣れない。
「そうそう。乾君も大学を無事卒業したら、正式に雇うんだよ。最低二年かかるが、同じ職場で見知った顔がいると安心するだろう」
所長の中ではコトはもう受理する前提なのだろう。コトは流れに飲まれまいと頭を振った。
「待って下さい。工場をたたむのはいつですか」
「そうだね。二年後ぐらいかな。明日の雨呑七十周年で報告するつもりなんだ」
「二年後。そんな急に。従業員は知っているんですか。班長、そうだ、班長は何も言ってませんでしたよ。どっちの班長も」
「班長の口は堅いから」
「ええっ。だって、工場以外にも問題がありますよ。保護者の母は不在だし、そもそも私、出生届出されてないし、諸々、とにかく問題があるんですよ」
狼狽するコトの肩を、所長はどんと力強く叩いて座らせた。
「君が考える必要はないよ。君は君のできることを十分尽くした。それを評価したい。担当の外れた試験管ベビーが、こんなに立派に成長したんだから」
聞き慣れない単語に首を傾げた。新聞で閲覧した記憶では、試験管ベビーは生殖医療による体外受精だ。今目の前にいる研究所の最高責任者が、そう言った。自分を。
「私が、試験管ベビーですか」
「君だけじゃない。コトちゃん含め、一号から四号みんな」
「その、さっき言ってた四号って誰ですか」
所長は部屋の背後の棚を漁り、机にファイルを乗せた。先ほどコトが盗み見たファイルと同じのものだ。めくり、カンシロウの写真を指す。
「遺伝子カスタムなしの試験管ベビーを育成し、我が研究所で開発している薬品の人体実験に使ったこども、合計五名。その一体、四号が担当研究員からカンシロウと呼ばれていたんだ」
「担当研究員って、え」
「彼らが親と呼んでいるものだよ」
所長の口から語られた内容は、まるで世間話のように語られた。
まず所長は新たに開発された遺伝子薬品を使用するため、遺伝子操作を行っていない体外受精の子供を試験管で五体作成。そして、親役として遺伝子提供した優秀な研究員がついたそうだ。思想に偏りがないよう、研究所が買い取った島の廃坑寸前の学校を利用し子供を十二歳まで育てた。
「教師役が、外山先生ですか」
振り返ってみるが、外山は黙々と作業し、こちらを見なかった。
「計画は順調にいくはずだったんだが、問題が起きてね。君の母親役、野中稲美先生が遺伝子操作を君に行ったんだよ。世間で流行っているギフトってやつで、遺伝子操作を良く思わない親が、世間体のためだけに行う不確定な要素をはらんだ遺伝子操作だ。その影響は生まれた時にわかるっていうね。母から貰った灰色の髪、いや、いまは黒か」
コトは自身の髪に触れた。
「髪が灰色だったから、計画の対象から私は外れて、工場で働けることになったんですか」
計画の対象になっていたら、カンシロウのようになっていたかもしれないと思うとぞっとした。
「髪が戻ったからといって、君を計画に戻すわけにはいかない。ただ、君を評価しているんだ。同族のよしみだとしても、君の頑張りは素晴らしいよ」
所長の離す言葉すべてが薄っぺらく感じる。笑みには凶器が宿っているとしか思えなかった。命をなんだと思っているのだ。あんなに痩せこけたカンシロウを見て、何も思わないのか。
「正気ですか」
口から出たのは侮蔑の言葉だった。純粋に、所長がなにを考えているのかわからない。所長の顔は常に穏やかで、動じたりはしない。
「思ったよりも、君は何も知らなかったんだね。八城から聞いた時は、賢らかな子だとおもったのに」
聞き慣れた恐ろしい男の名にコトはぎょっとした。
「八城はあんたとどういう関係だ」
「雇用関係だよ。ただのね。君は髪が変化したぐらいで、特に身体的な変化はないと聞いているが、本当かな」
八城は研究所にはコトの変化は告げていないのだろう。八城の真意はわからないが、馬鹿正直に「血を舐めたら超パワーがでます」なんて言えない。
「はい。フミは元気ですか」
「ん、ああ二号か。彼女も問題はないよ」
所長の言葉にコトは思わず立ち上がった。問題がないだって、リウマチに苦しんでいる彼女がどんな思いで父を思っているのか知らないのか。
「そんな言い方ないでしょう」
「コト、落ち着け」
乾学生がコトを無理やり座らせる。所長は不思議そうに考え込んだ。
「もともと実験で作ったはずが、名前を付けると愛着が湧くもんだ。だが情が湧きすぎるのも問題だな。君もそう思うだろ」
同じ人間とは思えず、コトはどっしりとソファに座り込む。
「海外の件、考えさせていただけませんか」
「明日の朝までにはいいかな」
「わかりました。あの、フミも一緒にいけるんですよね」
一拍置いて所長は笑う。
「もちろん」
コトは放心状態のまま、乾学生ともに退室した。
「乾は知っていたのか。私が、実験用のこどもだって」
「知ったのは、伊崎先生が疾走してからだ。なあ、あの人の考え方は常識を逸しているが、この話に乗ろう。こんないい話ない」
「実験用モルモットには、か」
コトの声は不安と混沌で揺れていた。焦燥し弱々しい声音に乾学生が声をかけようと考えている最中。
外山が小さなUSBを持ってコトの手に押付けた。緊張した顔をしている。
「所長の話に乗る前に、この内容を見てから考えて」
「先生、これ」
「私は本当の教師じゃない。その言い方はやめて。乾くん、所長がまだ用があるから戻れと」
乾学生と外山が踵を返す。
「なんでこれを、私に」
外山は答えない。
「自分で考えて」
「あの、私パソコン持ってないです」
外山は舌打ちをすると乾学生を先に向かわせ、パソコンを研究室から持参して渡した。そして風のように去り、コトは立ち尽くす。




