2022年3月27日「コトとカンシロウ」
3月も後半に差し掛かった。コトは試験病棟の裏口に括り付けられた柴犬マロを撫でつつ、青い空を見上げる。
「わふふ」
「お前はかわいいね」
背中を撫でると尾が左右に振られた。コトは病院着の袖口から伸びる腕を、今度は頭に移動させる。
「ううう」
「ごめんて」
気難しいマロから手を離す。裏口の仕切りの外から、人混みと車の搬入の音が忙しなく聞こえた。
見上げている頭上の太陽の位置を確認した。正午にさしかかろうとしている。
「あわわ」
コトは立ち上がり、まろに手を振ると犬はまだ撫でろと催促した。
「じゃあね」
コトは試験病棟まで走り、古い壁の窓のヘリを掴んでよじ登った。猿のようにとんとんと四階まで上がり、自分のいる病室に到着する。
「危ないだろ」
すると同室になったイワサがすかさず窘めた。窓の外から中に入ってくる音を察したのだ。
「イワサさんにしたら個室になるしいいじゃん。そもそもさ、男女同じ病室ってのがおかしいんだよ」
コトはどかっと自分のベットに悪びれもせず寝転ぶ。イワサはため息をついた。
二人きりの病室。ここには十五日に島から連れてこられた。てっきり警察に出頭するもんだと思っていたコトには良い事だった。
「俺は心配だ。ただでさえ貧血なのに、登っている間に落ちたらどうする。ここは四階だぞ。落ちて死ぬかもしれない」
「工場にいた時からしてたし、問題ないよ」
「そういうことじゃない。大人しくしてろ。野中先生に、もし君がなにかあったら、どう説明したらいい」
「イワサさんはさ、母さんが戻ってくるって思うの」
「当たり前だ。あんな誠実な人が、子供を置いて去るわけない。なにか事情があるんだろう」
「イワサさんって、母さんのこと好きだったりするの」
「その手の冗談は嫌いだ。やめろ」
病室の扉がノックされ、コトの学校の教師をしていた女性が入ってくる。
「こんにちは。お昼ご飯回収しにきましたよ」
二人前の置かれた空のトレーが下げられる。プラスチックの袋と空の牛乳瓶と、食べている内容は工場と同じだった。
「下げてくださってありがとうございます」
イワサが頭を下げる。
「いいえ。イワサさん目が見えないのにお上手に食べられるのね」
「慣れてますから」
二人は談笑した後、先生は指に嵌める採血機を使った。そしてコトも同じ手順で採血する。
「全然怖がらないのね。注射は嫌がるのに」
先生が不思議そうにする。もちろん八城の手で何度か経験ありとは、イワサの手前言えなかった。
「事情聴取とかしないんですか」
「あら。ここは病院よ。なんで警察みたいな真似するの」
「だって、ドリーから言われたんでしょ。こ、殺したって、私が」
恐ろしい言葉に声が掠れる。勿論コトが殺害する訳がないが、緊張してしまう。
「ドリー、ああ、警備員ね。いいのいいの。あれのことは」
あっけらかんを通り越してぞんざいな物言いに、イワサも眉根を顰める。
「あれ、ですか」
「では、イワサさん。検査に行きますよ」
先生とスタッフはイワサを車椅子に乗せて病室を去る。その前に、イワサは眉間に皺を寄せて、コトがいるであろう方を向く。
「大人しくしているんだぞ」
「そうよ。貴方は外出なんて以ての外なんですから」
コトは適当に頷き、足音が去ってから再び窓の外に飛び出した。
建物を下から見上げ、位置を確認した時に気になる奥の病棟へ進んだ。窓の外から中を覗くと、個室カーテンが全て閉まった集団病室がある。
ふと背後から風が靡き、個室のカーテンが動いた。合計四つのベットから、こちらを凝視している病人の目がコトに向けられている。
瞳孔の開いた虚ろな目が、ひくりと痙攣していた。
「うわっ」
思わずヘリを掴んでいた手を離してしまい、足がずり落ちた。ひとつ下の病室の窓が空いていたのでそこに手をかけ、腕が衝撃で痛む。
「あんた何してんの」
聞きなれた声に中を覗くと、そこには懐かしい羽田千代班長がいた。
「班長、無事だったんですね、いた」
建物の中に侵入してきたコトの頭を、班長は叩く。
「何やってんだい馬鹿だね。病院をやもりみたいに這ってたのかい。死んでも知らないよ」
そう言いつつ、班長の顔は穏やかだった。
「久しぶりです。本当に、なんの音沙汰もなくて。心配だったんですよ」
「あんたが手紙をすぐ送ってたらこうはならなかったんだよ。びっくりしたさ」
「それは本当にすいません」
「いいよ。あんたにも荷が重いことさせちゃったから。こいつが盗んだんだろ。聞いたよ」
話に花を咲かせていると、班長が相部屋の相手を指差す。真正面だけ開けていたので、相手が誰かすぐにわかった。同時に、息が詰まる。
「よお。楽しそうで何より」
顔にガーゼをはり、痛々しい姿の八城が恨めしい視線を送ってくる。
「散々好き勝手やったんだから、ざまあないね。転んだって嘘こくんだけど、あたしにはお見通しだよ。こいつは誰にやられたんだい、コト」
八城の視線が鋭くなり、コトは日和った。
「さあ。私も初めて知ってびっくりしてます」
「つまんないね」
班長は豪快に笑うが、コトは気が気ではなかった。病棟の探索を始め、班長の行方を知れたのは良かった。しかし、伊崎や所長といるだろうフミ、そのほか諸々がまだわからない内に八城に見つかったのは痛い。本人の様子を見るに動けないほどではないようだ。
「何見てんだよ。ねずみ」
カチンときたコトを班長は宥めるが、一度勝利した相手に弱腰ではいけないと鼓舞した。
「知ってることを全部話してもらう」
真剣な声音に班長は首を傾げた。
「はあ。わけわかんねこと言ってんじゃねえぞ」
しらばっくれる八城にコトは掴みかかり、班長が大慌てで駆け寄って引き剥がす。昨夜の超パワーがなくなっていることに気づき、コトは班長にぶたれて昏倒した。
「いった、え、なんで」
「病院では静かにしな。何やってんだい」
「だってこいつが」
コトが八城を指さすと、その手を班長が容赦なくはたいた。
「下品な真似するんじゃないよ」
「だってだって」
「だってもくそもないよ」
大声で怒鳴るからか、廊下からバタバタと足音が聞こえる。そして扉が開き、人影が現れた。
「なにしてるんですか、あ」
乾学生が現れ、ますます状況の収集がつかなくなった。
確執があるコトと八城、そして濡れ衣を着せてきた乾学生。さらに何も関係がない班長。コトが乾学生を睨んでいると、班長が二人の間に割って入った。
「乾先生すいません、少々うるさくしてしまって」
今まで聞いたことのない猫なで声に、乾学生含め全員が目をむいた。
「あ、俺、まだ学生なんで先生じゃないですよ」
「何を仰ってるんですか。もう立派な先生ですよ。そうだ、今から八城さんの検診でしたよね。この子勝手に入ってきちゃったみたいで、すぐ退出させます」
早口にまくしたてて事態を収める算段だろう。班長の満面の笑みが怖い。乾学生がおずおずと病室に入り、八城が服を脱ぐと肌には幾何学的な模様が腕と背中にかけて蔓延っていた。
乾学生と班長がぎょっとする中、こそっとコトが班長に耳打ちする。
「なんで肌に落書きしてるんですか」
再びコトは班長に頭を叩かれる。コトはタトゥーを見たことがなかった。後ろを向きながら、乾学生が準備をしつつぼそぼそと喋り始めた。
「外山先生が、車いすを押してコトちゃんの病室に会いに行くって言ってましたよ。ここにいたらまずいんじゃない」
彼なりの助言なのだろう。外山は、コトの教師だった女性の姓だ。彼女には外に出るなと釘を刺されているので、コトは窓のへりに体を寄せる。
「おいコト」名を呼ばれ思わず八城を見てしまう。「条件を忘れるな。俺は歓迎するぜ」
コトは答えずに窓の外に身を乗り出した。そのまま壁伝いに自室に戻ったが、乾学生はコトが落下しないよう最後まで見届けていた。
イワサはまだ戻ってきていない。ベットに潜り込んでいると、扉を叩かれ二人の人物が現れた。外山先生は車いすを押し、顔には微笑みをたたえていた。一方でコトの顔は凍り付いた。
「びっくりしたでしょう。二年ぶりかしら」
車いすには、同じ病院着を着ているのに二回りほど服の余った、人間らしきものが座っていた。瘦せこけた頬、皮だけの体、髪一本生えていない頭。そして、あの暗がりの病棟で見た落ちくぼんだ虚ろな目。
「先生、誰ですか」
「だいぶ容姿も変わってしまったものね。カンシロウ君よ」
カンシロウは懐かしい名前だ。およそ二年前、コトがまだ学校にいた時によく喧嘩してた。最後の記憶も、確か喧嘩別れだった。生意気に眉を釣り上げ、口を開けば悪態ばかり。女友達二人に囲まれ強気になってた十二歳の少年のイメージが浮かぶ。
「え、彼が」
彼は姿勢悪く車いすに縮こまっている。コトや外山の言葉には無関心だった。
「ええ。カンシロウくんにね、コトちゃんの話したら会いたいっていうものだから。私嬉しくなっちゃってね」
だから連れてきたというのか。当の本人は俯いて生気がないばかりだ。
話そうにも、彼とは親しくない。その上外山だけはにこにこ笑うので、気まづかった。
「イチコさんやニナさんは、今どうしてますか」
その名前を口にすると、カンシロウの虚ろな目が揺れるのを見た。
「いまは、カンシロウ君のことでしょう」
外山ははぐらかす。コトは立ち上がり近寄ると、身構える外山から車いすを奪い走り去っていった。
車いすの余りの軽さに驚く間もなく、後ろを確認して外山がいないこと確認した。
「え、え、なに」
「うるさい。先生がいたら喋れないからだよ」
カンシロウは振り向く。
「喋るってなにを」
「無理やり先生に連れてこられたんだろ。先生そういうとこあるから」
よく言えば気が利く、悪く言えばお節介。コトはそれで散々学校生活で悩んだ。
「先生が行こうって、言うんだもん」
舌っ足らずな幼い喋り方に苛立ちながら、コトは車いすを押して行く。
「私もあんたと喋ることないよ。あんた嫌いだし。ただ、知ってること教えてよ」
「やだよ。俺もお前嫌いだし。父さんが言ってたぜ、お前の母ちゃんは卑怯者だって」
親が言う事を鵜呑みにして仲間外れにしていたのだろう。子供じみた考えに怒りよりも呆れを覚えた。
「あっそ。なにが卑怯なの」
「あ、え、知らんし」
思わずため息が出る。
「じゃあお前の父ちゃんに直接聞きに行くか」
沈黙が続く。
「いない」聞き返しても、カンシロウはぼそりと。「もう会ってくれないんだって」
「だって、て。誰かが言ったのか」
カンシロウは頷いた。
「ずっと、思ってたんだけど、覚えてるか知らんけど、さ、最後に会った時さ」
辿々しい言葉に、最後の喧嘩を思い出す。母親が居なくなってすぐその話が世間に伝わった。肩身が狭く不安だったコトを見て、カンシロウが「卑怯者の母親だから消えたんだ」と一言。そして大喧嘩に発展した。
「俺、俺父ちゃん居なくなって、それで思ったんだ。俺、酷いこと言ったって。ごめん」
「忘れたよ」
沈黙が続く。互いに鼻血やら青あざを作った喧嘩だ。嘘の方弁だとカンシロウもわかっている。
「お前良い奴だな」
「いまさらかよ」
「エレベーター乗って」
コトは言われるままのり、最上階のボタンを押した。そして案内のまま進んでいくと、薄暗い病棟に辿り着く。
「ここって」
病室からは呻き声が聞こえてくる。そしてカンシロウは閉じた変哲もない扉への入室を促した。
「ここでいつも検査するんだ」
コトは恐る恐る扉を開けると、そこには誰もいない検査室だった。しかし、奥にはもうひとつ部屋がある。ガラス越しにそれが伺えた。空っぽの寝台が鎮座する、白い部屋。
コトは車いすから手を離し、静まり返った検査室を探索する。すると、カンシロウの視線が留まるファイルに目がいき、取り出す。
「うわ、英語か」
アルファベットの存在や簡単な構文なら分かるが、あまりにも単語が難しい。
「それ、フミの父ちゃんや乾の兄ちゃんも見てたよ」
乾学生は兎も角、所長が見ていたと言うなら確かな筋だろう。しかし、このファイルには写真付きの五枚のファイル。イチコ、ニナ、フミ、カンシロウ、そしてコトの幼い頃の写真が載っていた。フミとカンシロウ以外赤いスタンプが真ん中に押されている。
「なんかやな感じ」
さらに後ろにはDollyと書かれた二枚の紙が入っていた。
「ど、ドリー。これドリーって読むよね」
「さあ」
カンシロウに見せるが首を傾げるだけだ。
よく見れば、瓜二つの幼い子供の写真が載せられている。内容を深く知りたくてもちんぷんかんぷんだった。
「クローン、んん、クローンしかわからん」
ファイルを閉じて表紙を見ると、これは日本語で「幼児対象:遺伝子進化計画①」と書かれていた。
「なにしてるんだ」
驚いて振り向くと乾学生がいた。乾学生はコトからファイルをひったくる。
「返してよ」
「読んだのか」
乾学生の怒鳴り声に怒りを感じたが、カンシロウが今にも泣きそうな顔をしていた。
「ごめんなさい。俺、俺が、乾兄ちゃんごめん」
彼の声に多少冷静さを戻し、乾学生はファイルをそそくさと戻した。
「こっちこそ急にごめん。外でアナウンスがあったんだよ。患者が無断外出したって。ほら、早く病室に戻ろう」
「白々しいんだよ」
車いすの取っ手を掴んだ乾学生の動きが止まる。
「コトちゃんごめん。さっきは怒鳴っちゃって」
「はぐらかすなよ。さっきのファイルは何。私たちの写真と、あとドリーの写真もあった。遺伝子進化計画って何」
「早く戻らないと」
「カンシロウはちゃんと外山先生に許可取って外出してるし。私も、まあ」
「まあって。ほら、ここは危ないから」
「一緒に研究所の秘密を探ろうって言ったのに」
はぐらかしていた乾学生の目が泳ぐ。
その時、外の患者の声が大きくなった。騒ぎを聞きつけ乾学生とコトが表へ出ると、伊崎がふらふらと歩いてやってくる。
「伊崎先生」
乾学生は驚いて先生付けしてしまう。
「なんだ。伊崎が外出してたんだ。よ」
伊崎は二人が来ても呆けた顔で歩いて来るばかり。コトが軽く肩を叩くと、伊崎は鬼の形相でコトの肩を掴んで揺らした。
「稲美さんはどこだ」
乾学生が無理やり引き剥がすが、ほとんど雁字搦めにして地面に縫い付けている。
「先生、伊崎先生。落ち着いて」
「お前らのせいで、稲美さんが、俺の大事な人が」
「母さんのこと思い出したの」
コトが尋ねると同時、遠くで犬のまろの甲高い鳴き声が聞こえた。警戒心の強いまろは蝶々の影でも良く吠える。ただの声に、伊崎は今の倍以上の絶叫を上げて震えて縮こまった。
乾学生が彼の背中をさするが、周りの患者が互いに共鳴するように声を上げ始める。
事態が収拾できなくなった時、外山が従え恐ろしい形相でやってきた。
「貴方たち何しているの。ずいぶん探したのよ」
「ご、ごめんなさい」
外山は連絡用の小型携帯に連絡し、やがて複数人のスタッフがやってきた。彼らは検査室、病室に散らばっていく。
「ちょうど二人に用があったの。来なさい」
指名された乾学生とコトは逆らうことは到底できず、豪華な扉の前まで案内された。




