現代「辺田イザキと老婆、そしてヤミエ」
気分が非常に悪い。聞かされる話は実に受け入れ難く、俺を混乱させる。
「お久しぶりね。辺田さんの坊や」
今目の前にいる老齢の女性は、今まで聞いてきた話のどの登場人物にも似ていなかった。柔和で、腰の曲がった小さな老人。ティーカップにかける細い手からは気品が漂う。
「え、あの、お会いしたことがあるんでしょうか」
「小さい頃にね。ふふ、気分が悪い時は紅茶がいいわ」
ダージリンの優しい香りが鼻腔に届く。俺の心を少しだけ和らげた。
「ではお言葉に甘えて」
「あら、ごめんなさい。貴方の分のカップはないのよ」
「でもさっき」
「気分が悪いのは私の方。こんな狭い部屋、久しぶりに外に出れたと思ったら知人に知らないと言われ。ああ、気分が悪い」
そう言いながらずずいっと紅茶を啜る。イザキは面食らってしまう。
「す、すいません」
「貴方随分威勢がいいとお聞きしたのだけれど、思ったより腰が低いのね。老人には手加減するおつもりなのかしら、ひよこさん」
口調は穏やかだが、言っていることはやけに喧嘩腰だ。そのアンバランスで俺はまた頭が痛くなる。
「もういいです。日記も読んで貰わなくても、俺はもうどうでもいい」
「私は人様に読み聞かせなんて致しませんよ。ただ、感想を聞きたくてこの部屋を訪れたの」
「日記は、俺の想像とは違った」
「違う。自分の憶測で話始めないで、ついていけないわ。あの子のことよ」
そう目を輝かせる女性の目は、美しく光っていた。
「誰のことです」
「誰にでも優しく、平等で、少し気まぐれなあの子」
「だから、名前を」
「ヤエミよ」
それは今世界を悩ませる病の名前だった。そして、微笑む彼女の顔から記憶が掘り起こされる。
「あんた、雨呑研究所の会長じゃないか」
「やっと思い出したの。ゆっくりさんね」
「あの子って、なんで、ヤエミは、ウイルスでしょ」
「私が作ったからよ」
頭を殴られたような衝撃に放心する。
「貴方、でも、雨呑研究所は、病を治すのが、理念で」
「そうよ。それは今でも変わらない。雨呑研究所は世界の病を完治させるために設立された。その計画には辺田さんも関わっているわ」
「父が、ですか」
「その、父って言い方、私の前では辞めてくださるかしら」
棘のある言い方にイザキはすっかり萎縮してしまう。妙な迫力は、全国に拠点を持つ雨呑研究所の会長たる所以か。
「は、なんで、貴方にそんなこと言われなきゃならないんですか。俺の父です。育てて貰って、それはもう大事に」
「白々しいわね。ほんとに今でもそう信じきっているのかしら。イザキさん」
胸が苦しい。
「そ、そうですよ」
「ふふ。ではそうなんでしょう。ヤエミもね、それはもう大事に育てて、ここまで大きくなったのよ。そして、とても臨機応変な子だわ」
「人によって症状が違うってことですか」
婦人がニコリと笑うと、背筋に悪寒が走った。
「分かってきたじゃない。あの子はね、人の体質、特に病気に敏感でそれに呼応して対処するの。最近では、心理状態にも作用することもわかってきたわ」
その内容は初耳だった。イザキの体が小さくなる症状は、専門家の父からは不明だと告げられていた。世界的にもその人の体調に左右されると聞いていたが、心理状態は初耳だ。
「じゃあ、俺の手は、心理状態が幼いからとでも言いたいのか」
「私もそこまで嫌味じゃないわよ。それに、ヤエミはそんな単純じゃない。一部の退化と引き換えに、大幅な特長を引き起こす。人類の身体的革新なの」
「それが、この時代だとでも言うのか。お前たちが作り出したウイルスのせいで」
「暗黒時代は避けがたいものよ。犠牲の上に成功が成り立つの。やがて春が訪れるわ」
「いい加減にしろよ」
落ち着いた様子で淡々と語る婦人に耐えられないと、イザキは立ち上がった。
「一気に喋りすぎちゃったかしら。貴方には難しいみたい。要はね、盲目の人の聴覚が発達するのが良い例ね」
「この世界にはいい例だけじゃない。ほとんどの人間の体が、崩れて変わって、人間らしい生活を送らなくなってるんだぞ。みんな孤独で、ばらばらで」
言っているうちに嗚咽が上がってくる。感染症で狂った世界をこの婦人は見たことがないのだろうか。彼女はうんうんと頭を頷けるばかりで、彼女の心は一向に見えない。
「孤独や分断はウイルスが原因なの」
「なんですって」
思わず声が上ずる。
「貴方、人間は不完全で社会も不安定なものよ。ウイルスが発生するよりも前から。もしヤエミのせいで世界が滅んだとしても、その責任は弱すぎる人間のせいだと思うわ」
「このババア」
今まで出したことのない声が腹の底から沸き上がり、拳を振り上げて掴みかかる。しかし、婦人のつぶらな瞳を前にして、どうしても殴ることが出来なかった。
イザキは十秒目を閉じて深呼吸をし、ベットに腰を下ろした。
「落ち着いたかしら」
婦人は憎らしいほど悠長に紅茶を嗜んでいる。
「その話が本当だとして、なんでそんな研究所がウイルスをばら撒いたんですか」
「それは追々わかるでしょう」
眉間に血管が浮く。
「じゃあ日記読みますよ。読めばいいんでしょう。でないと続きがわからないでしょうから」
「あら、あれだけ読みたがらなかったのに。心変わりが早いのね」
あんたのせいですよとは口が裂けても言わなかった。すると、日記を滅茶苦茶に捲ったからか、挟んでいた写真が一枚落ちる。くしゃくしゃになった、赤ん坊を抱える笑顔の女性が映っている。
「野中先生は素晴らしい女性だったわ」
しみじみと語る婦人の声には、先ほどまでの茶化した口調はなかった。
「ひとつ聞きたいんですが」
「私にわかることでしたら」
「この雨呑村には、日記を書くってルールがあったでしょう。この集団をまとめるリーダーの案で、自己管理を高めるとかうんぬんかんぬん」
「で、それがなにか」
「それ以外の、なにか特別な理由があるんじゃないかと思って。思想の監視とか」
「はは、日記にそれ以上もそれ以下も意味はないわよ。紙があって、鉛筆があって、することなかったら、何かしら書くものよ。おっかしい」
婦人はひとしきり笑うと、さっとイザキから日記を奪った。
「ちょっと」
「読んだげるわ。貴方おかしいから、気が変わったの。それに読まないとわかんないでしょう。この日記汚いもの。字も文脈もめちゃくちゃ」
「皆さんどうやって読んでるんですか」
「さあ。皆さん、普通に読んだのよ」
「まるで真に迫るようでした」
「貴方の中で、ではね。なにか身に覚えがあるのではないかしら」
婦人はパラパラとページをめくる。
「違う。俺は何も知らない」
「そうやって目をつむって寝てればいいわ。次の朝、ちゃんと醒めればいいのだけれど」
「あんな、多角的な視点、俺は知らない」
婦人は適当に相槌を打つ。
「わかったわ。ええ、あら、ここからは随分と文字が乱れているわね。情緒不安定で、とても孤独だったのでしょう。書く暇もないくらい忙しくて、あとがきを書いてるわ。見て」
3月15日以降は本当に文字が重なり読めない頁がいくつか。そして、きれいな落ち着いた字で書かれている頁が、あとがきと称した部分だ。きっとすべてが終わってから、ゆっくりと書いたのだ。
『3月27日 おかえり、母さん』




