2022年3月15日「コトと八城班長」
コトは暗闇の中這い蹲って書き続けること数十秒、草むらを進む足音に気づき顔を上げた。
ミツハだと思っていた顔が曇った。あれは八城だ。
すぐさま建物の陰に隠れる。
「さっさと入れ」
八城が誰かと二言三言会話した後、建物内に消えていく。コトは気配がなくなったのを確認し、校舎の中に入った。暗い廊下で足音を忍ばせ、理科室の扉を開けて侵入する。
懐中電灯もなく、夜目になった頃を見計らって捜索を開始した。だが所詮はこどもの思い付き程度で、破れて修理された配管を見る事しかできなかった。
五日前に錯乱状態になったとき、事故の夢を見た。何か見逃していることがある気がした。
「コト」
驚いて振り返ると、ミツハが理科室の入り口にいた。コトは胸をなでおろす。
「びっくりした。来るの遅いから先は行っちゃったよ。何してるの」
ミツハは入り口から動かない。懐中電灯の光は微かに震えていた。
「八城もこの学校内に来てるから。ほら、さっさとはいっちゃって」
無言のミツハに歩み寄り、コトは手を掴んで中に促したがミツハは石のように動かなかった。
「やっぱり無理です」
震えるか細い声にコトは困惑する。ミツハの恐怖の原因は頭上から、地の底から響くような低い声で轟いた。
「やれ」
振り返るが暗くて何も見えない。その隙をついてミツハが腕を振り払い、さらにその腕をコトめがけて振りかぶってきた。
「うおっと」
「動くなって。当たんねえじゃん」
ミツハが今まで聞いたことのない金切り声を上げる。コトの制止の声を振り切り、ミツハは懐中電灯を振り上げ走り寄ってきた。
「ミツハ、危ないって」
叫んでもミツハは覚悟を決めた顔で、だが辛そうに眉根を顰めて走ってくる。暗闇の理科室の中走り回り、壁に追い込まれる。ミツハは獲物を見定め、にじり寄ってきた。コトは藁にもすがる思いで腕を伸ばした。
「痛くしないよう殴るから。すこし気を失うだけ」
「そんなので殴ったら痛いに決まってんだろ」
「動くなっつってんだろ」
闇の中でミツハの肩が激しく上下する。唇をかむ彼女の震える手に、コトは釘付けになった。
「降ろせよ。そんなやつじゃないだろ」
「何も知らないくせに、しゃしゃってんじゃねえよ!」
荒い口調の彼女の姿は、虚しく強がっているように見えた。にじり寄る足は迷っているのか動きが鈍い。
「あんな蝙蝠野郎の言うことなんて聞くな」
蝙蝠野郎と揶揄され、微かに二階で高みの見物を決め込む影が笑った気がした。
「てめえの親に居場所ばらすぞ」
ミツハの顔が恐怖で固まる。コトはミツハに駆け寄って手を掴み、彼女の耳に一言告げた。ミツハはそれを振り払い、コトの頭を殴り昏倒させた。動かなくなったコトを影は見下ろし、二階から手すりを超えて悠々と理科室に着地した。
懐中電灯に照らされたのは、大男の影だ。
「八城班長、あの、これで、いいんですよね」
八城は答えずにミツハから懐中電灯を奪うと、コトの顔に光を当てた。
「あ、なにがだ」
ミツハは目線を向けられるだけで震えが大きくなる。
「あ、あの、母に、わた、私の居場所、言うの、は」
「はっきり喋れ」
八城が大きな声を出すと、ミツハの肩がどんどん委縮していく。八城は鼻で笑い、ポケットから採血用の小さな機械を取り出す。そしてコトの右手を取った。
「八城班長、そ、それ、どうするんですか」
来い、と八城が短く命令すると独楽鼠のようにミツハは寄ってくる。八城はミツハの手に機械と手を持たせた。
「お前がやれ」
「え、や、やるって」
「赤いボタンを押せ。青じゃねえ。間違えるな」
ミツハの手が唖然とする。八城は険しい顔で行動を促す。
ミツハにはこの機械が何なのかはわからない。だが、きっとこの時の為に自身が呼ばれたのだと確信した。自分の手を汚さない為に、八城が。
自分がしないと、母に居場所が知らさせる。その恐怖で支配されていた。
「こ、コトは、どうなるんですか、こ、このボタンを押したら」
「お前には関係ねえだろ、な」
痺れを切らした八城が笑ってはぐらかす。ミツハの手の震えは大きくなるだけだった。
震える手が赤いボタンにかかる。彼女の中で、恐怖と良心がせめぎ合っていた。グッと伸ばされる親指が、進行を止める。
「で、できません、わたし」
その時コトが勢い良く上体を上げ後頭部が八城の側頭部に当たった。コトはミツハの手を握って理科室を飛び出そうとした。しかし、顔を抑えた八城は素早く足払いをしてコトは突っ伏す。
思わず離れたコトの手を取ろうとしたミツハに、コトはなるだけ悪辣な声で跳ね除けた。
「さっさと大人を呼んでこい愚図」
ミツハはコトの真意を汲み取ったのか、そのまま走り去る。
八城は彼女を追うこともせず、コトの背中に重たい臀を落とした。
「よっこいしょっと。倒れたのは演技か、あの余所者のガキもそれを知って乗っかったのか」
八城の言う通り、殴るふりをしろと言ったのはコトだ。しかし八城がミツハの弱味を握っている限り、コトは何も言えない。
「これでお前も降格だ。ざまあみろ」
背中に乗る八城の体重に、さらに圧力がかかりコトは呻いた。
「俺は絶対に班長の座からは降りることはない」
八城の妙な自信には、何故か説得力があった。そしてコトの右手を自分の手前に寄せ、採血器具を指に嵌める。
「なんでミツハに襲わせるような真似させたんだよ」
時間稼ぎにもならない、コトの嘆願めいた質問が暗い理科室に響く。
「俺はよく見てる。お前らがコソコソしてるのも、よおく見えたからお灸を据えてやろうとな」
「私が隠してた班長の手紙も、盗み見たのか」
八城は鼻で笑った。
「ガキが秘密のものを隠す場所なんてのはな、大人だったら皆わかるさ。あの手紙のお陰で、邪魔なやつを消せた。ありがとよ」
せせら笑う彼の顔に、班長との信頼や思い出すら汚されたようで怒りが沸いた。そして思わず、彼の顔に唾を吐きかけた。人生で初めての、人を見下す反抗的な行為だった。
「お前なんか大人じゃない」
八城はゆっくりと唾を拭い、細い目で睨みつける。コトは怯まず睨み返したが、八城は躊躇なく彼女の親指を折った。
ぎゃあ、と猫が尾を踏まれた時の声が喉から漏れる。八城は彼女の手を離し、頭を掴んだ。
「俺はお前の髪が黒黒してから、いてもたってもいられなかったんだ。実験してみたくて」
痛みで涙が溢れ揺れる視界に、自身の折れた指が見えた。その指はハッキリと直角に曲がって痛々しい様だが、ふとその指が意志とは関係なくピクリと動く。
「え、なに」
思わず声が出てしまう。八城の目は爛々と、無邪気に輝いていた。その期待に答えんばかりに、指が元の位置に戻っていく。コトは、自身のことながら信じられない面持ちで見ていた。
「そら、動かしてみろ」
コトは訳もわからず動かすと、先程までの痛みは嘘のように消え、指も自由に動いた。
八城は突然コトの頭を床に叩きつけ、再び採血器具を指に入れ直す。
「ま、待てって。なにか知ってるのか」
「いつも使ってる採血器具をな、少しばかり改良したんだ。採るんじゃなくて、注入できるように」
八城は興奮気味に器具の微調整をしていた。声も気色ばみ、コトは鳥肌が立った。
「なに、入れるんだ。待って、やばい薬とかじゃないだろうな」
八城はすぐ側にある液体タンクを見上げるが、すぐに視線を指の先に戻した。
「なんだ。お前もようやく雨呑研究所の怪しさに気づいたのか。いや、最初から気づいてたけど見て見ぬふりをしてたのか。金が欲しくて」
容赦なく赤いボタンに指をあてがわれ、コトは痛む首を回して口を動かした。
「違う、待てって、やめろ、なにを入れたんだその機械に」
「力むな。痛いぞ」
「頼むから、やめて」
八城はニヤリと待ちきれないとばかりに歯をむき出して笑った。
「俺の血液だよ」
思わぬ答えに思考が止まるが、八城はもうボタンを押してしまっていた。
鋭い痛みが指先に走り、血液の侵入に気持ちの悪い感覚を覚える。歯を食いしばり汗が頬を流れた。
ぴーっと完了の音がなり、八城は器具を外してぐったりとするコトの肩を揺さぶった。
「おい、しっかりしろ。気を失ったか」
八城は反応のない彼女に対し舌打ちをかます。彼女の顔を覗き込んでも閉じた瞼と眉間は険しい。だがその瞬間、見開いた彼女の目は素早く獲物を捉え、殴りかかってきた。
すぐ様防御を構えたが、その威力はおよそ十四歳とは思えぬ尋常ではない威力だった。
理科室最奥の壁に叩きつけられた八城は、自身の実験の結果に笑わずにはいられない。
「はは、痛え、痛えなあ。なんだその馬鹿力、なあ、コトわかるか」
コトはゆらりと立ち上がり、つかつかと八城に歩み寄る。八城は拳を胸の前で構えた、とても愉快そうに。
「あんた、全部知ってるのか」
八城はコトが射程距離内と見るや否や、すぐにファイティングポーズを解いて再び足払いをして関節技をかける。
「知ってるって、何を。はは、こんなにはっきり結果が出ると笑えてくら。俺が考えた仮説は立証された」
八城が悠長に語っている隙に、コトの力はめきめきと常識を超え、今度は男に比べれば細いその腕で八城を押し倒した。
「お前、研究員なのか」
「俺があんな恵まれたエリート共な訳ないだろ。そうだったらと、何度かは思ったが」
「隠しても無駄だぞ」
「疑ってんのかあ、お前」
「知ってること全部吐け。でないと」
コトの利き手が振り上げられるが、一向に降りてはこない。喧嘩はしたことがあっても、人を暴力で脅すのはこれが初めてだった。
八城の眉がくいと上がる。
「でないと、なんだ。俺を殴るのか。暴力で訴えるなんて恐ろしい奴だ」
「うるさい、おまえだって何度も」
「だから、殴るのか」
応答が交わされるが、コトはまだ決心がつかない。八城の目がぎらりと月の光に反射した。
「お前なんかなあ」
若気の至りで振り絞った拳が振り下ろされようとした時、八城は悲痛な表情で媚びた。
「まあ待て待て。提案があるんだ。俺の下で働け」
な、といい案だとばかりに八城は言うがコトにはひとつも信用出来ない。
「急に何の話だ」
「俺の下についたら、俺がお前のボスになる。お互い禍根はなしにしようじゃないか」
コトは八城の首根っこを引っ付かんで睨めつけた。
「ふざけるのも大概にして下さいよ。八城さん」
「はは、このタイミングで冗句言うほどユーモアはないね。だがよ、確実に廃材処理よりも稼げるぜ」
コトにとって金稼ぎは価値のあることではない。それは、鈴木老人や入口のドリー、母の行方とその手がかりしかない。
「仕返しされるのが怖くて法螺吹いてら」
「金さえあればなんでも出来る」
これは八城の信条とも呼べる言葉だった。なんでも、という言葉にコトはピクリと反応した。
「なんでもなんて、大袈裟な」
「軽んじるなよ。地獄もこの世も金次第だ。こんな所おさらばして、二人で商売を始めようじゃないか。同意してくれるなら、俺の知ってることは教えよう」
商売に興味はなかったが、この謎めいた彼の素性には興味があった。だらけた、しかし班長にのし上がったこの男からは、研究所の正体を明かす手がかりの匂いが立ち込める。
「この土地から離れるのか」
コトの心には行方知れずの母と、体の悪いフミがいる。それだけではない。この土地には愛着がないわけなかった。
そんな彼女を、哀れみの目で男は見た。
「ママがそんなに大事か。ねずみ」
侮蔑のあだ名に、コトが苛立つ。
「その呼び方やめろよ」
「俺の知ってることをひとつ教えてやる。いや、みんな知ってて口に出さないだけだがな。お前の母親は二度と帰ってこない」
頭が真っ白になり、口が戦慄いた。
「何処にいるか知ってるのか」
八城は盛大に笑う。
「知るわけねえだろ、手前の母ちゃんなんてよ。二年だぞ。音信不通で二年、生きていたとしたら、そりゃお前を捨てて男に走ったに決まってるさ」
気づけば拳はじんと痛み、八城の左頬はひしゃげていた。歪んだ口から、まだ白い歯がニヤついて見える。
「適当こくなよ」
「いいやわかるね。俺がそうだったから。女ってのは、フラっと猫みたいに消えるもんだ」
「お前の母親とは違う」
「目を覚ませよ。ママはもうお前を起こしに来ちゃくれないんだよ」
二度とな、と八城が言い終わる寸前にコトは無茶苦茶に殴りつけた。あれだけ躊躇していた筈が、恐怖も消えてしまった。
「その手を離せ。でないと撃つぞ」
懐中電灯に背中を照らされ、振り返ればそこにはイワサとミツハがいた。イワサの手には、五日前に発見した拳銃が握られている。ミツハが彼を呼んだのだろう。
「おめえが持ってたのかよ、それ」
息も絶え絶えの八城の姿に、駆け付けたミツハは困惑していた。イワサは向けた銃口が正しい位置かどうかもわかっていなかったが、八城の声に反応した。
「八城か、なんだその声。今にも死にそうじゃないか」
「けっ、銃の使い方もわからねえお前に言われたかないね」
「普通そんなのわかんないよ」
ミツハが弱っている八城をいいことに会話に応戦する。
「白杖は持ってこなくていいのか」
八城の言葉通り、イワサの手には使い道のない銃しか握られていない。目の見えない人間にとっては必需品のものだ。それを持っていないことに、緊張が解け始めコトとミツハは凝視する。
「呼びに行ったとき、私よりも来るの早かったよね」
ミツハの言葉にイワサは額をかく。
「目が見えないと、偽ってたのか」
「違う。私はそんなことは決してしない」
コトの言葉に弁明をした瞬間を見計らい、八城はポケットから銃の弾丸を取り出し床に放った。鈴の音を思わせる高い音が理科室に響く。イワサは頭を下げ、音に集中しているようだった。その様を見て、八城は含み笑いをする。
「蝙蝠野郎はお前の方だったな、イワサ」
閉じた瞼の中で眼球が蠢き、彼の中で状況を整理する。
「コトが、八城を、持ち上げて、いるのか。首根っこを、掴んで」
「いちいち口に出すな。よけい惨めになる」
イワサがゆっくりと前進し、ミツハが手を握って先導するのをやんわり拒否した。やがてコトの傍に来る頃になると、コト自身の怒りが緩やかになった。そんな彼女の手を、空を掴みながらやっとの思いでイワサは握る。
「痛かったろう」
自分のささくれた内心を見透かされたようで、コトは再び恥ずかしくなった。同時に優しさに触れて目頭が熱くなる。コトはゆっくりと手を開き八城を解放した。
「痛てえのはこっちだよ馬鹿野郎」
「お前は人の神経を逆なでる事しかできんのか」
「へへ、言ってろ。研究所の奴らにどうこうされたくなかったら、頭を垂れて許しを請いな」
「お前は研究所の人間なのか」
八城が面白くなさそうに口に溜まった血を吐きだす。
「俺は協力者だ。あいつらと同じじゃねえ」
「じゃあなんで俺とコトを事故に合わせたんだ」
イワサの言葉に記憶の靄が晴れていく。あの時事故が起こる直前、自分たちを見下ろしていた影はこの男だったのか。
「知らねえな」
「配管には、きれいに穴が開いていたと聞いている。この銃に触れて気づいた。この銃の持ち主が、俺たちを危険な目に合わせたとな」
それから先は言うまでもない。八城が銃で配管の穴をあけ、薬液を含んだ蒸気にあてさせた。問題は、なぜそのような行動に移ったかだ。
「あんたのせいで、散々な目にあったんだぞ」
コトの中には再び怒りが沸き上がってきた。入口のドリーの姿をした出口のドリーの悲痛な姿が浮かぶ。彼は今も苦しみ、みるみるやつれていっているというのにこの男には反省の色が見えない。
コトに首根っこを再び掴まれても、八城は動じない。
「実験道具があったら、ついついしてみたくなるもんだろ。不可抗力だ」
「その実験ってなんだよ」
「待って待って、みんな見てるよ」
ミツハに肩を揺らされ振り返ると、学校の外に従業員たちが群がっているのが見えた。懐中電灯に一気に照らされ目がくらむ。理科室の前にいたシルエットは、乾学生だった。
「乾、こっちに来たのか」
会いたかった相手に声が弾むが、乾学生の顔は暗くて見えない。
「出入り口の警備員一名の所在についてお伺いしたいのですが」
事務的な口調に違和感を覚えつつ、コトはさっさと手を離して近づこうとした。その動きを止めるよう、乾学生は両手で制する。
「な、なに」
「あまり近づかないで」
「はっきり言えよ。夜中に、こんな騒ぎ立てて」
周囲の忙しなさに取り残された感覚だった。乾学生とコトの間には、見えない壁がある。
「そこまで言うなら。もう一名の方から密告がありました」
「なかなか来れなかったのは謝るよ。え、密告」
「君が、警備員をバールで殺害したと」
コトだけではない、言っている本人すらも信じられないという顔だ。言われた本人のあまりの仰天ぶりに、八城は笑う。
「偽造、脅迫に暴力、おまけに殺人。身震いがするな」
「違う、そんなわけない。何言ってるんだよ」
「とにかく陸地に連行します。あ、暴れないで、下さい」
乾学生は本当にコトを恐れていた。
「ほ、ほんとに疑ってんのか。そんなのドリーの、なにかの勘違いだ」
ドリーがコトを殺人として密告したなら、それは大嘘だ。もしくは研究所側が勘違いしたか。コトは冷静に考えることが出来ず、辿々しい口振りで慌てるしかない。
その時、コトの教師だった中年女性が乾学生の脇からひょっこりと現れた。
「あら、八城班長、まあまあ、なんてこと」
ずた袋のようなみすぼらしい八城を見て、直ぐに他の職員と共に担架を用意する。そして八城が耳打ちすると、イワサの方を見た。
「先生私、殺人なんてそんな馬鹿な真似、私」
「イワサさん、貴方体に異常が出ているそうね」
先生はこちらを見やしない。
「はあ、え、八城さんがそう言ったんですか」
「班長は関係ないわ。そうね、一緒に研究所に来てくださる」
そのままつかつかと歩き去り、その後に乾学生、担架で運ばれる八城、コトとイワサの二人が校舎を出た。
従業員の物見集団の中に、伊崎もいた。実に不安そうな、取り残された子犬の目をしている。コトは、彼をひとり置いていくことが出来なかった。
「先生、伊崎研究員は彼です。こいつです」
ようやく先生の目と視線が合う。伊崎は急に自分が呼ばれ縮こまっていた。皆の視線が集まり、事情を知っている乾学生の刺すような視線に耐える。
「なにを仰っているの」
「逃亡を図った裏切り者を見逃すんですか。情報漏洩だって、元はと言えばこいつが元凶でしょう」
指さして訴えても訝しげな顔をだったが、乾学生が堪らずコトの腕を掴んだ。
「お前何言ってんだ。違います、こいつの言っていることは出鱈目ですよ」
先生の鋭い目が伊崎に向けられる。乾学生の挙動が明らかにおかしかったのだ。
「従業員リストには、名前がありませんね。不法労働は見過ごせませんわ」
結局伊崎も共に連行されることになる。
「ペットのコオロギに餌やりお願いね」
コトの声が虚しく響く。
坂道を無言で下り、林の中に建てられた場違いな警備室を横目で見る。そこにはみすぼらしいドリーが、ちょこんと座っていた。事の顛末を見守るように。その姿を見て、思わず警備室のガラスを叩く。
「どういうつもりだ、お前」
ドリーは動じたりしない。じっとこちらを見てくる。
「俺は、怖いんだよ」
「臆病もんはいいよなあ。私が、本当のこと研究所にチクると思ったのか」
「でも、これでもう誰もお前の言うことを信じるやつはいないだろう」
ドリーの狙いはそこだ。思わず自分が口走った真実を研究所に漏らされる前に、コトを研究所に売ったのだ。
「その警備室から離れて」
背後では乾学生が震えながら忠告し、先生は口を覆って唖然としている。
「研究所には、何があるんだよ、教えろ」
ガラス越しにドリーだけに聞こえる声で尋ねる。
「故郷だ」
はあ、とコトが合点がいかないと声を漏らす。
「おいネズミ、早くしろ。こっちは鼻血が止まらねえよ」
腰が引けてる二人に対し、八城が呑気に急かす。ドリーは失笑した。
「ラットなんて呼ばれてんのか。ウケるな」
ドリーの口元は歯が見えたが、瞳は揺れてとても正気には見えなかった。
「お前、笑うのか泣くのかハッキリしろ。いいか、必ず戻ってきてお前をボコボコにしてツケを払わせるから。それまでここにいろ」
捨て台詞を吐き、コトと一行は海底トンネルの闇へと消えた。その姿を、亡霊のようにドリーは見つめるばかりで、夜はコンコンと更けていく。




