2022年3月15日「イワサと夜の従業員集会」
恐る恐る扉が開くと、ミツハは手にファイル詰めのパンと牛乳を持っている。
「お昼一緒に食べよ」
コトは安心して外に出た。そしてミツハから昼食を受け取り、誰もいない原っぱで横になって座った。
「はあ。ミツハはこれでよかったの」
ミツハは気遣うような視線でコトを見つめた。
「私は地元から出て、自分の稼ぎだけで生きていければそれで良かったの。でも、八城班長はちょっと怖いよね」
八城の恐ろしい瞳を思い出しコトは再びため息をつく。
「裏バイトって最初にすごい言ってたよね。覚えてるかな。どこから聞いたの、そんな求人」
ミツハの顔が暗くなる。コトが気づかずコッペパンをむさぼっている間に、ミツハはさっさと昼食を食べ終え立ち上がった。
「地元の話はあまりしたくないの」
ごめんね、と寂しげに笑う顔にコトは口をつぐんだ。
「誰にだって言いたくない話はあるよね。こっちこそごめん」
「いいのいいの。最近班長から仕事押し付けられてて、ちょっとイライラしてて。あの、バカでかいタンクの掃除とか」
ミツハの指した先にあるのは、コトとイワサが事故にあった理科室のあたりだった。小さな二階建ての校舎に押し込められたタンクの配管が破裂し、イワサは視界を失った。
「あそこで配管の破裂事故があって大変だったんだよ。気をつけな」
「だから髪がこんなんなっちゃったの」
ミツハがふざけてコトの頭を撫でる。
「違うって。それは」
なぜ髪が黒になってしまったのだろう。母からは遺伝子操作云々は何も聞かされていないので、明確な理由はわからない。だが、大きなきっかけとなったのはあの事故かもしれないと、コトの脳裏をよぎった。それは直感的な、乾学生に会えない焦りから生まれた思い付きだった。
「どこ行くの」
コトが立ち上がり理科室に向かおうとする。
「あのタンクを見に行く」
何がわかるかはわからない。しかし、じっとしていることはあまりにも酷だった。
「もうお昼終わるよ」
駆けだそうとした足が尾を引かれてズッと止まる。
八城が班長になってからというもの、作業は忙しくなる一方だった。そして、手を抜こうものなら食事抜きなどの罰が与えられる。元から彼の昇進に反発的だったメンバーも多く、目立つ行動は出来るだけしない方がよいのはコトもわかっていた。
「ミツハ、いいの」
だから、ミツハが差し出した鍵束には心底驚いた。ミツハの手中には、この工場のマスターキーが握られていたのだ。
「私がコトの後をつけてきたせいで、色々迷惑かけたし。おじいさんにはいつか必ず謝るから、その時はうまく取り計らってよ」
ミツハとはほんの少ししか言葉を交わしていないが、彼女の本心が迷惑をかけて謝りたいだけだとはわかっていた。
「わかったよ。行くとしたら夜かな。夜の学校って不気味で嫌なんだよなあ」
「面白そうじゃない」
ミツハもすっかり行く気でおどけてみせた。
ひとまずコトは鍵束を受け取ろうとして落としてしまう。
「ああごめん」
伸ばした手よりも早く、素早く動いたミツハの体が動く。コトの伸ばした手が彼女の頭上を覆った時、ミツハは短い悲鳴を上げて頭を両手で抱えた。その異常な素早さにコトは唖然とする。
「あ、あはは。はい鍵。なくしちゃだめだよ」
ミツハの引きつった笑いと手に押し付けられた鍵束を手に、コトはさっさと走り去る彼女の背中を見る事しかできなかった。
彼女の腕には、もうすっかりコトの噛み跡は残っていなかった。だからと言って、その時の痛みまで忘れることはできないのだ。
悪いことをした、コトは後悔を胸に仕事に向かった。
正午から日没まで、仕事に没頭していれば一瞬だった。いつもは仕事が終われば体育館を改築した大食堂にも行けず、階段を上って二階の小さな畳で寝込むしかない。しかし、今日のコトのポケットにはあの鍵束があった。
「こんな時間にどこ行くんだ」
階段を降りると、イワサが声をかけてくる。彼は事故以来盲目だったが、妙な勘の良さには驚かされる。
あたりを見回せば、夜食後の消灯の時刻だというのに大食堂には蠟燭の明かりが灯っていた。ここ数日、八城が班長になってから従業員たちが無断で会合を開いている。コトは参加しなかったが、イワサは熱心に耳を傾けていた。
「班長が戻ってくるわけでもないのに」
「聞こえてるぞ。いいか、お前も参加しなさい。八城が班長になってから俺たちは働きづめだ。いつかぶっ倒れちまう」
従業員たちは研究所や所長の屋敷に抗議しに行こうと話し合い、大いに盛り上がっている。コトは彼らが蠟燭の小さな灯に群がり燃え立つほど、興が削がれる思いだ。
「私はいいや。なんか、労働とか権利とか難しい言葉は聞いてたら頭痛くなるよ」
「こんな時のための班長との勉強会だったんじゃないのか。班長の処遇だって知らされてないなんてあんまりだ、そうだろ」
班長は、今は前班長だが、この工場を去ってから音沙汰すらない。警察に連れていかれたか、一切合切なにも。八城がなぜか班長に抜擢され、当然のように従業員は働かせ続けられている。まるで、私たちには知る権利すらないようだ。
「研究所に反感を買う方が面倒でしょ」
「いつまで見て見ぬふりするつもりだ。お前が陸に行こうと動いているのは知っている。そのほとんどが失敗に終わっているのも」
人の口に戸は建てられない。夜中にべそくれて帰ってくるコトの行動など、島の従業員であれば手に取るようにわかる。
「地獄耳だね。でも、私は研究所にあからさまに盾突くつもりないよ」
「コトちゃんの立場が難しいのもわかる」
ポケットに突っ込んだ両手をモゾつかせながら、コトはイワサの開かない目を見た。
「イワサさん、実は目が見えてたりするの」
「冗談はよせ。コト。動くときは今しかない。お前はどうするんだ」
イワサの真剣な声音に、周囲のざわめきが遠のく。いつも飄々としている彼らしからぬ様子に、コトの胸中は穏やかでなかった。
「変なことしたら、イワサさんだって工場で働けなくなるかもしれないよ」
イワサの眉根が憐みで歪む。
「生き方は自分で選ぶさ。研究所じゃなくても、日本じゃなくても、俺は自分の力で生きていく。君は野中先生を、ずっと待ってここで働き続けるのか」
盲目な彼の強気な言葉にコトはたじろいだ。何が彼の中で燻ぶり燃えているのかわからない。温厚な彼には、時折思わぬ行動力に驚かされるばかりだ。だが、コトはイワサの言葉に答える気はない。
母は研究所で働く人だ。今までの研究所の不穏さに気づかないわけがない。しかし、真っ向から戦う気も、抗議する気もないのだ。ただ平穏な日常が戻ればと願っているだけなのに。
「母は関係ないでしょ。私はずっとここで働きます」
コトは半ばやけくそになって走って行った。イワサは彼女の後を追おうか迷ったが、従業員に呼ばれ輪の中に戻っていく。
コトは講堂から離れ、草むらを大股で踏みつけながら理科室に向かった。頭の中は真っ白で、自分でも感情の整理がつかなくて鼻をすする。段々と自身の大人げなさと恥ずかしさで涙が滲み、頬を乱暴に拭った。
「なんで、なんで、なんで」
思考が混濁して苛立ちに変わる。声に出しても収まらないので、コトは左のポケットに入れていた日記帳に書きなぐった。班長に教えて貰った、小さなノートに思うまま書くしかなかった。コトには胸中に収めるには難しい感情がひしめいた。




