2022年3月15日「コトと意地悪な新所長」
水平線から日が昇る前に、コトは畳の上から身を起こした。
羽を閉じて休む鈴虫の傍に、鰹節のパックの中身を摘まんで置いておく。そして、素早く身支度をすると窓から身を投げ出し屋根に着地した。まだ八城が集合していないことを確認し、急いでフミの屋敷に走って行った。
木を登って窓のテラスに近づき、中を覗き込む。
「フミ、きたよ」
反応がないことを確認する。ここ五日日間、ちょうど髪の色が黒に変色してからフミの家を訪ねても不在だった。中に人がいる気配もなく、仕方なしに家の扉を叩いても返答はない。
今日ほどフミと話したい日はないが、コトは再び島の屋根を伝って帰路を辿った。塗炭の工場の屋根を走っていると、島では聞き慣れない車のエンジン音が聞こえ、視線を横にずらした。一台の見慣れない軽自動車。
運転席にはフミの父、その後ろにはフミがいた。
思わず声をかけようとしたとき、前方不注意で顔の側面に壁がぶつかり、首が嫌な音をたてた。体は空中で力をなくし、建物の隙間に吸い込まれ、体のあちこちがぶつかりながら落下していった。
やがて体は工場の窓に引っ掛かかり、壊れかけの窓が大きな音を立てて割れ地面に落ちていった。
衝撃で混乱する視界には、今まで走っていた工場の内部が映し出されている。そこには、敷地一杯に埋め尽くされたドラム缶があった。
「なにこれ、うわ、うわ」
詳細を見る前に、下半身の重みに引っ張られコトの体は三メートル以上ある地面に叩きつけられた。上体が打ち付けられ、コトは痛みで失神してしまう。
「いいの、私すぐ傷なんか治るから。次の日にはきれいに消えてるよ」
暗闇の中で、ミツハの声が聞こえた。あれはコトが彼女の腕を噛んでしまった日のことだ。次の日になったら、彼女の腕の傷はほとんどが癒えており、目立たなくなっていたことに驚いた。
彼女の腕には悪いことをしてしまった。しかしなぜいま彼女の顔が浮かぶのだろう。私は、フミとただ話したかっただけなのに。
「フミ、待ってよ」
手を伸ばそうとした時、ふと視界が明るく自分の体が動くことに気づいた。コトはそのまま体を起こし、今は頭の中もすっきりしている。体を動かすと、無理なく伸びやかにしなった。さっきまでの重体は見る影もなく、コトは脱力した。
フミと所長はあえて自身の応対には出なかったのだろうか。先ほどの車の影が胸に靄を残す。だがそんなことを考えている暇がないと悟ったのは、朝日がすでに昇っているのを見てしまったからだ。
コトは急いで屋根伝いに上り、体育館の形を留めた大食堂に辿り着く。そしてそのまま資材場に行くと、もうすでに作業に取り掛かっているほかの作業員とすれ違った。
「どこいってたんだよ」
廃材を分けている作業中の伊崎の声に、イワサもコトの気配を感じ取って顔を上げた。
「ごめん。作業止めちゃって」
あたりを見回すが、廃材はきちんと所定の位置に置かれていた。
「伊崎が頑張ってくれたんだよな」
イワサの声に伊崎は少し誇らしげだ。伊崎の手には黒ずんだノートが握られている。忘れっぽい彼なりの対処で、この危機を乗り切ったのだろう。しかし、伊崎はあれから研究所のことを一欠片も思い出しはしなかった。
「助かったよ」
「いつも世話になってるからこれくらいは。それよりも、どうした」
コトの服装は地面や壁に引っ掛かってひどく汚れていた。伊崎の心配げな視線をかき消すためにコトは笑う。
「はは、転んで」
「転んでこんなに遅くなったのか」
「まあ。八城の奴にはあとで詰められそうなんだけど。あいつには適当言って誤魔化すさ」
「ほう」
笑っていた目を開けると、伊崎の引きつった顔が映った。イワサさえも遠くの椅子に座りながら、額に手を当てて俯いている。
「なによ、おわ」
言いかけていると後ろの首を引っ掴まれ振り返れば、仏頂面の八城がいた。コトは喉が浅く悲鳴を上げ、引きつった笑みを顔に称えるがもう遅い。
「おう、適当こくとは調子いいこって。安心したよ」
「はは、班長。今から伺おうとしたところです」
コトは班長兼八城に引きずられ、事務室に放られた。するとすでに部屋で待機していたミツハが駆け寄って背中をさする。
「泥だらけじゃん、大丈夫なの」
「は、大袈裟な。元から小汚ねえ鼠みたいな恰好だったよ。黒髪になってからは、溝鼠感が増したがな」
コトの黒髪に触れようとした八城の手をコトが払う。そして立ち上がると、反抗的な目を収めて腰を折った。
「すいません。遅刻しました」
「わかりゃあいいんだ。あの婆も苦労したんだな。遅刻癖はさっさと直せよ」
八城がミツハを押しのけて奥の席に重い腰を下ろした。八城はミツハに退出を促し、コトを前の席座らせて採血を始めた。小さな機械をコトの指に入れる。
班長が八城に代わり、すべてが変わってしまった。
特に作業内容が大きく変わり、島間運搬がコトはできなくなった。そして、ミツハが工場で働くことになったのだ。だが、そのこと自体、コトは不安で仕方ない。
ぴーっと、採血完了の音が鳴る。
「この前伊崎先生を探したときの事だがよ」
いやな汗が背中を流れる。
「はあ」
「変なもの見つけなかったか」
変なものの心当たりが多すぎて、コトは逆に素直にいいえと言えた。小さくなるイザキは伊崎研究生そのものだったが、研究所には何も報告はしていない。その罪悪感や沸き上がる不信感、乾学生に会えない焦りでコトは疲弊しきっている。
「例えばなんです」
八城は前の班長が購入した教科書の表紙に、L字型の黒い絵をペンでかいた。コトは思わず嫌な気分に駆られたが、吼えはしなかった。
「こんな形をした、重い部品だ」
イワサが必死に自分の手から引き剝がした姿が脳裏を走った。あれはきっとこの男のモノなのだろう。コトは恐怖でたつ鳥肌を我慢できず、機械から勢いよく指を離した。
「わ、わからないです」
八城の視線が恐ろしく鋭い。子供の嘘などお見通しだと言うようだが、八城はいきなりコトの右手を掴むと、先ほど針で刺した指を凝視する。
「おいねずみ」
「は、はい。なん、なんですか」
反抗的な意思は形を潜め、コトは憐れに上ずった声で震えるしかなかった。八城の目は、血の一滴も出ていない指の腹を見ている。機械は採血を確実にしていることも見て取れた。
八城は、班長替えの時からずっと彼女に違和感を覚えていた。黒くなった髪が顕著だが、血液検査を見ても異常は見られない。
「俺をいつまでも騙せると思うなよ。クソガキ」
八城はコトから手を離し、肩を大きな手で重く叩いた。そしてそのまま何も言わず事務室を出ていき、コトはへたり込んでしまう。見逃されたのだ。だが、時間の猶予はない。




