2022年3月9日「乾と伊崎先生」
「班長、どうしたんですか」
「まずいことになった」
勢いよくドアを閉め普段はかけないロックをする。そして作業服に包まれた赤ん坊を椅子の上にそっと置いた。
すると、赤ん坊の体が震え始めた。コトと班長は顔を見合わせるが、班長は何もするなと首を振る。
「班長、あの、今言うことじゃないんですけど」
「黙ってな」
「この子、イサキなんで、す」
赤ん坊の柔らかく白い小さな手が、太く大きく蛇のように成長を遂げていく様は異様だった。赤子の成長と言うよりも、元に戻っていくといった方が正しいのだろうか。そこには赤ん坊では無く、目を閉じたイサキの裸体が転がっている。
「知ってるよ。私が一昨日、こいつを見つけたんだ」
班長が奥の棚から白衣を投げる。やけにごわついた生地にまごつきながら、その名札には伊崎ヨシヲと書かれていた。乾学生が探している男だ。
「え、じゃあイサキは伊崎先生ってことですか。ああ、やけにごわついてるなこの服」
「海を渡ってきたんだよ。本人が言ってた」
コトと班長は力を合わせイサキ兼伊崎を椅子に座らせて置く。そして二人は扉の手前で椅子に座った。班長の神妙な面持ちに、コトに緊張が走る。
「本人って、イサキは工場の新入りでしょ。それが、伊崎研究員って」
班長は誰にも言うなと前置きして、事態の全容を語り始めた。
いまから一昨日、班長が事務室で作業していた時戸を叩く音に気づき、ずぶ濡れの伊崎研究員を見つけたというのだ。彼はひどく狼狽した様子で、会話できなかった。その直後、体が縮こまり壮年の姿から青年になったそして、記憶の一部が欠けた状態で、ひとまずこの工場の従業員として囲うことを決意したそうだ。
「研究所には何も言わないでくれ。頼む」
伊崎はそう嘆願した。聞き取れたのは、その言葉だけだったという。
「言う通りにしたんですか」
コトは思わず声を荒げた。班長の話を聞いても訳が分からないが、何より研究所から脱走した研究員をかくまうなど。コトからしたら職務放棄した人間を助けるのは信じられなかった。勤めるのは研究所であり、従うのも研究所だ。
班長はコトの軽蔑の視線を見据え、伊崎の懐に入れているノートを差し出した。
ノートの中を捲る。
「こいつの体が縮む前に、何か色々書いてた。汚すぎて読めない。こいつに聞いても、わからないと言うだけだ」
「いかれた奴だな。こんなやつを匿う貴方も、私には信じられない」
「写真を持っていた」
コトはノートを捲り、最後のページに件の一枚の写真があった。これも海水でふやけごわついていた。一人の女性が赤子を抱えて微笑んでいる。その女性の姿は少し若いが、笑った時の目元の皺が特徴的で面影がある。
「母さんだ」
「この赤ちゃんは、きっと」
班長が言うまでもない。
頭を強く殴られたようだった。この写真を持っているの理由。コトもにぶいわけではない。だが、そうだとしたら今なぜこのタイミングで現れた。
「こいつ、まさか」
「言おうと思ったんだ。まさかこんな形になるとは」
「ちょっと、喋らないで下さい」
コトの手が震える。怒りが事態に追いつかない。
事務室の扉が叩かれ、班長が隙間を開けて対応した。
「いま取り込み中だよ」
二言三言話し合った後、班長は中の状況が見れないようそっと外に出た。
二人きりになった事務室に、重い沈黙が流れる。伊崎はまだ目覚めない。
「お前、本当に父親なのか」
答えは返ってこない。すると再び扉を叩く音がした。
「コト、そこにいるか」
この声はイワサだ。コトは扉を開けると、ひどく慌てた様子だった。
「イワサさん、どうしたんですか」
「班長が辞めさせられる」
コトが驚いていると、イワサに急かされるままついていった。
そこは工場の大食堂で、集団がたむろしているがふだんの賑やかさはなく、不穏な空気が漂っていた。そんな全員の前には乾学生の他にコトの先生を務めていた研究員と、あろうことか八城がいた。あたりを探しても、班長の姿は何処にもいない。
「皆様残念な知らせです。班長の羽田千代はこちらで身柄を預かり、この度八城が班長を務めることになります」
すかさずどういうことだとヤジが飛ぶ。
「班長が社内秘を外部に漏らそうとしたんだよ。言いたくなかったどな。証拠がこのUSBだ」
八城が自慢げに高々と掲げた小さな端末に悪寒を覚え、コトは自室の畳を漁った。だが、ひっくり返してもそこにあるのは埃だけ。あの封筒は何処にもなかった。
おそらく、あの封筒に入っていたのはUSBだ。八城がなぜ持っているのかは知らないが、とんでもないことをしてしまった。
「八城さんどうも。先ほど捜索していただいた伊崎ヨシヲですが、彼が盗んだと思われるものと内容が一致しています」
「伊崎先生が盗難だって」
イワサが驚愕している声が響いたが、コトはこうしちゃいられないと再び外に出て事務室に戻り扉を開けた。そこには服を着た伊崎がいる。
「や、コト。俺寝ちゃってたみたい。班長に怒られるかなあ」
とぼける彼だが、これが彼の正真正銘の姿なのだろう。
もし彼が研究所から情報を盗み、班長がその情報の売買を手助けしたのなら。そして、その男が自身の父だとしたら。研究所に突き出すのが正しいのかもしれない。しかし、コトは母の手がかりをみすみす手放す気にはなれなかった。たとえ、なんの記憶も持たないでくの坊だろうと。
「伊崎、体はだいじょうぶか」
努めて冷静に尋ねると、伊崎は笑顔で答えた。
「ああ、どうしたの」
「コトちゃんごめん」
振り返ると、そこには走ってきたのか息を切らした乾学生がいた。
「乾、なに、あのふざけた演説はもう終わり」
「さっき、伊崎って呼んだね。彼を」
コトはまずいと身構えるが、乾学生は手を振って誤解だとアピールする。
「待って、研究所の人にチクったりしないから」
「こいつが、研究所のやつだってわかるのか」
乾学生の目が細まる。
「うん、いや、勘だけど。従業員リストにいない人だし、名前がイサキで、目が、俺の良く知ってる伊崎先生とそっくりだから」
普段は頼りない彼の言い分に納得してしまいそうな確信めいたものがあった。
「言わないって、研究所からデータ盗んだ奴なのに」
乾学生がひと呼吸おき、口を開けた。
「コトちゃんは、俺たちのやっている遺伝子工学が、本当に世界を助けているって思うかい」
こちらの質問などお構い無しの言葉に首を捻るが、どうやら本気で聞いているのだと表情から伺えた。
「急になに」
「俺には、なんだかよくわからなくなってきちゃったんだ」
「乾が研究所でやってることは、誰かの助けになってるから続けられるんじゃないの。私はものを運んでるだけだから、そうとしか言えない」
「髪の色が一瞬で変化しても、君には大したことじゃないのか」
「これは」
「髪だけじゃない。それは、人の構造を大きく変わった証拠だ。そんな重大なことを今まで俺たちは平然とやってたんだよ」
「落ち着けって」
「君こそよく冷静でいられるな」
「なにがあったんだよ」
乾学生は黙る。
「君こそ、何かあったんじゃないか」
乾学生は大学生で、研究所のインターン生だ。将来この研究所で働くかもしれない。
目の前で狼狽する男の声など、コトの心には届いてはいなかった。研究所には関わるなと、警告してきた様々な人間たちの声が響く。
「聞きたいなら、お前にも喋ってもらう。研究所のことを」
乾学生は腹の底に溜まっていた迷いを振り切るように息を吐きだした
「わかった。けど、ここではダメだ。明日研究所に来た時、いいね」
明日島間作業でということだ。
コトはそっと手を差し出して乾学生が掴む。
「お前も来るか」
コトは振り返り、蚊帳の外にいた伊崎に声をかける。伊崎はいまだに状況が呑み込めないという表情で固まっていた。
「伊崎さんが来ると怪しまれる。コトちゃんだけで頼む」
彼の中ではもう伊崎は研究所の先生と同一になっていた。乾学生の視線が懐かしむような、切ない視線になっている。
「言ってみただけ。研究所はさ、本当にお母さんの居場所わからないの。もし気になることがあったら、見てみてよ。なんでもいいから」
藁にもすがるような思いだった。本来なら他人のことを構っている暇はない。だが、母の出ていった背中が脳裏に焼き付いて離れなかった。母が、自分を置いて出ていくなんて。
「俺は捜索犬じゃない」乾学生は突き放し、しっかりとコトを見据えた。「探すなら、明日一緒に行こう」
外が騒がしくなってきた。
小雨の音も鳴りだし、乾学生は闇の中に消えていった。




