2022年3月8日「フミとコト」
山の中は鳩の鳴き声で埋め尽くされている。朝も夜も独特の間隔で聞こえる鳴き声で。
2022年3月8日も、ちょうどそんな肌寒い、いつもの朝から始まった。
「イワサさん、起きられますか」
コトは一番階段に近い部屋に住むイワサに声をかける。入口で背を向ける成人男性は、気だるげに背伸びをした。
「今何時かな」
コトは階下の大食堂の壁にかかった時計を見やる。
「あっと、朝の五時です」
「ごじぃ?」
イワサの声は素っ頓狂に間延びした。
「今日はちょっと早めに出ようと思って。声だけかけたんです」
なぜコトはイワサに声をかけたのか、それは彼の閉じた瞼が示していた。寝起きではなく、これから一生彼の瞳は視界を映すことはなく閉じられている。
「隣のお嬢に逢いに行くんだろ。俺の事なんか気にしなくていいよ。俺はちゃんと朝起きれるから」
軽い調子でイワサは手を振るが、コトは歯切れが悪かった。
「もう目は慣れましたか」
「お前が気にすることじゃないよ。あんたも被害者なんだから。あれは事故。じゃ、俺はもう少し寝る」
コトは再び寝始めたイワサの部屋の前から離れ、足を忍ばせながら宿舎の窓を開けた。
四方1メーター程の窓を開け、上方のヘリに両手を掛けて下半身を浮かせ足を放り出した。
足は窓の屋根に着地し、目の前にはくすんだ壁が立ちはだかる。
コトは壁沿いに屋根や僅かな隙間を足場とし、宿舎から隣の工場の屋根まで駆け上がった。
早朝の山中を白い朝日が照らす。緑を切り開いて聳える煙突とえんじ色のとたん屋根。
薄汚れた建物を足で踏み鳴らし、コトは工場地帯から離れた小高い丘にある、クリーム色の美しい洋館まで辿り着いた。
「はあ、は、へ、疲れた。しんどい」
灰色の作業服の下を汗が濡らす。コトは一旦屋敷の傍の木に立ちどまると、どっと疲労が体を支配した。
頭がグラりと揺れ、上体を腰の位置まで低くする。貧血気味の彼女はいつも通りの症状に対処すると、気を取り直して立派な広葉樹の太い枝に両手をかけた。
体を前後に二三度振り、頃合いを見て腕に力を入れて前転する、枝の上に乗っては前転を繰り返し、窓のテラスの位置まで辿り着いた。
「フミ、起きてる」
小さな声で尋ねるが返答はない。
波の文様のような洒落た手すりに頬杖を突く。今更ながら自分の体に寝起きのだるさが戻ってきたのか、大きくあくびをした。
まだ寝ているのだろうかと東の空を仰げば、風が優しく凪ぐ。
「コトおはよう」
突如外開きの窓が勢いよく開き、頼りない手すりに掴まっていたコトの体が揺れる。作業靴でしっかりと踏んでいた足が、空をかいた。
「掴んで掴んで」
思わず閑静な辺りにコトの声が響く。
「ごめん、そんな驚くと思ってなくて」
申し訳なさそうにフミが腕をつかんで一息ついた。元気なカラッとした声を聞くと胸が躍る。白いワンピースのパジャマに身を包んだ彼女は、この島で昔から馴染の親友だった。
「ここのテラス危ないんだから。気を付けてよ」
「だって今日来るの早いから、慌てちゃって」
二の腕まで伸びた黒髪と日の光を反射する白い肌。仲良く学校に通っていた頃に比べれば見た目は大きく変わったが、話しているときに感じる懐かしさと安心感は彼女としか共有できない。
「まあ。私も早く来すぎたかも」
落ち込むフミの雰囲気につられ、ばつが悪そうにコトは頬をかく。
「なんで」
聞かれても具体的には口に出せない。
窓の外から中を覗けば、宿舎では到底見かけないようなウッド調の線の細い家具が並んでいる。白いカーテンが頬を撫でると、自分の服装や髪の汚れとは対照的過ぎて、胸に靄が溜まった。
「島外での仕事も慣れてきたから、色々頼まれて。緊張するんだよ」
少しね、と言わなくていい強がりを挟む。
「また班長さんに怒られたんでしょ」
悪戯っぽく軽く言われるだけで、頭の中で班長の怒鳴り声が響く。同時に自分の失敗や不始末を想起してしまったのか、顔が大きく歪んだ。
「一日に五回はぜったい怒られるんだよ」
声が落ち込んだのを気に病み、フミはしまったと慌てる。
「でも、怒られてる内が花だって、お父さんも言ってたよ」
怒られているうちが花、聞き慣れない言葉だが慣用句だろう。
この屋敷の主、つまりはフミの父は島外の陸地に居を構える研究所の所長だ。彼はコトがいま務めている工場の関係者であり、間接的な上司にあたる。二年前は、自身とフミの関係に格差が生まれるとは思ってもみなかった。
フミは一日ずっとこの優雅な部屋で過ごし、一方自身は工場で廃棄物をせっせと運んで宿舎で眠りこける。
「なんでこうなったんだろう」
思わず呟いてしまい、フミは無邪気に顔を覗き込んでくる。
「コト、だいじょうぶ」
伺うような恐る恐るとした声音に、自分の薄暗い胸中が見透かされた気がして気が咎めた。
「いつもと変わらないよ」
「工場で事故にあったから。心配だよ」
配管の巡らされた油臭い工場での出来事が頭をよぎる。あれからひと月が優に過ぎた。配管の不測の破裂によって、作業員のコトとイワサが蒸気を被った事故だ。
「私はぜんぜん。もう一人の人のほうが、目が見えなくなっちゃったから」
言葉尻が萎む。イワサはコトにとって良い仕事仲間であった。十四の年端もいかない同僚を憐れむでもなく、等身大で接してくれているの感じる。居心地の良い関係の人だ。だから余計に、無傷の自分が後ろめたい。
「イワサさんだっけ、その人」
昔馴染のフミにはできる限りのことを話しているからか、理解が早い。コトの仕事が始まる前に、こうして窓辺によって日々のことを話す。
忙しい日々の中でも、今日まで二年間続いた癒しの時間だった。労働の苦労も知らない時間を共有した二人だからこそ得られる特別な空間。
「そろそろ行くよ」
「待って」
背中を向けて木に飛び移ろうとしたコトを呼び止める。
「どうしたの」
「明日も絶対来てね」
元気溌剌だった彼女の顔に影が差す。
十二歳までは、フミは肌も焼けて髪も短く、男の子かと見紛うほどの容貌をしていた。それが今は、部屋の外に出ることも禁じられたか弱い体になってしまった。
コトが言い返す前にフミが咳き込み、急いでベットに座らせた。
「フミの方こそ気をつけなよ。ほら、早く寝て」
「島の外にばっかり、行かないで」
熱のせいか潤んだ瞳を向けられる。
「私はずっとここにいるよ。お母さんが帰ってくるの待ってないと」
母のことに触れると、フミははっとしたのか口をつぐんだ。
「ごめん。困らせちゃった」
「いつものことだよ」
コトは屋敷の階段を上がってくる足音に気づいたのか、足早に窓から身を投げ出して颯爽と去っていった。
遠くなる足音を布団の中で聞きながら、フミは部屋の扉を叩く父に答える。
「だいじょうぶか。フミ。物音がしたけど」
「なんにもない」
「ならいいんだ」
静かになる部屋で、昂った感情を落ち着ける。
「コトは何処にでも行けるけど、わたしは」
言いかけて、最後まで言えなかった。惨めさと暗い悲哀が胸を埋めて、枕を濡らしていった。




