2022年3月9日「コトと錯乱」
「コト、いい加減にしろ」
「目を覚まして」
「悪く思うなよ」
頭を揺らす強い衝撃に火花が散った。コトは固い床に横顔が叩きつけられ、冷えた床が頬を伝って状況を理解させる。
ぼやける視界のピントが合い始め、上体を起こせばそこは鈴来老人の家だ。そこには息の荒いイワサ、イサキ。そして赤くなった腕を抑えて顔を泣き腫らしているミツハがいる。
「はあ、あれ、皆なにして」
またなにか夢を見ていた気がするが、今のコトには現状の把握で精いっぱいだ。
「正気に戻ったか」
イワサは大きくため息をついて床にへたり込んだ。
コトは酩酊する頭が徐々に冴えていく中で、口の中に違和感を感じ端を拭うと、それは桃色の肉の欠片だった。家の中の冷蔵庫が荒らされており、食べ物が引っ掻き回されている。、そして、ミツハの腕を見ればくっきりと歯形が残っており、滲んだ血と内出血で青くなっていた。
「ミツハ、どうしたのその腕」
コトが心配して駆け寄ると、イサキが立ちはだかる。
「なにも覚えてないのか」
「え、なに、ってえ」
口に鋭い痛みが走る。口の端が切れており、舌には何かわからない肉の感触と血の鉄の味が交じり合って吐きそうだった。
「急にコトちゃんが倒れたんだ。それで俺が助けを呼んだら、イサキくんとこの子が中に運んでくれたんだ」肩を上下にさせながらイワサが教えた。「そしたら、急に起きて血相を変えて、冷蔵庫の肉を漁り始めて」
肉、というワードにコトは危機感を覚えたが、先に話を聞くことにした。
「わ、私が、した、の」
リビングは暴れまわった痕跡がありありと残っている。ひっくり返った机に引き裂かれたカーペット、全員の服装も乱れてしわくちゃだ。
「取り押さえたら暴れて、ミツハちゃんの腕を嚙んだんだ」
衝撃的な事実に頭がまた痛くなる。ミツハは痛みに眉をひそませながら、気丈に振舞った。
「いいの、私すぐ傷なんか治るから。次の日にはきれいに消えてるよ」
コトは自分のしでかしたこと、友人をひどい目に合わせたことが信じられず後悔が襲ってきた。
「イサキ、イワサさん、ミツハ、ごめん」
「元に戻ったみたいで良かった」
イワサが安堵する中、コトは口の中に残る柔らかい肉の感触に違和感を覚えていた。これは冷蔵庫の中にある生肉だろうが、冷蔵していなかったとなると一日以上は置いているはずだ。
「コト、どこに行くんだ」
イサキが声をかけるが、走り出すコトが向かった先がトイレだった。勢いよくしまったドアからは雄叫びと、聞くに堪えない声が響く。
「生肉を食ったんだ。あとはわかるな」
イワサが言うと、イサキは憔悴しきるミツハを宥めながらじっと彼を見つめた。
「なぜ、肉だってわかったんです」
「なんだ」
「取り押さえるので精いっぱいだったじゃないですか、俺たち。盲目の貴方が、なんでそこまで細かいディティールがわかるんですか」
「俺につっかかるな。問題は解決したんだ」
「なにも解決していないです」
語気を荒げるイサキに、イワサとミツハは驚く。
「そう言うなら、俺はお前の方が怪しい。突然新人と班長に紹介されたが、お前を試験病棟で見かけたことはない。何かを聞いても、曖昧な返事ばかり。研究所からのスパイか」
「わからない」
「またそうはぐらかす」
「本当に、わからないんだ。自分がどこからきて、何者なのか。このノートに書かれていることはなんなのか」
イサキの呼吸が荒くなり、体が震え始める。懐からノートが零れ落ち、彼は上体を支えるために床に手をついた。
「お、おい」
イワサの声が震える。ミツハが悲鳴を上げた。状況が呑み込めないイワサは狼狽する。
「どうなってるの」
「イサキがどうしたんだ」
ミツハは恐る恐る近づき、イサキだったものを抱え上げた。それはあまりにも小さく、ふやふやと声を上げるしかない。
「赤ん坊になった」
イワサが絶句していると、トイレの扉が開くふらふらとコトがやってくる。その姿を見て、ミツハは再び声をひっつめた。
「今度はなんだ」
「コト、髪の色が」
コトはわけもわからず自身の髪に触れる。窓の見てみれば、そこにはいつも通りのすこしやつれた自分がいた。しかしその髪の色は灰色ではない。夜のような黒色に変貌していた。
やがて赤ん坊が泣き始める。警報のように、事態はもう引き返せないと彼らに警告しているのだ。




