過去「コトとイワサ」
「掃除当番さぼるなよ。俺はちゃんと見ているからな」
配管が巡るここは、かつてコトが学生の時分に理科室として使っていたところだ。いまは雨呑研究所の工場となっている。理科室を二階まで天井を上げ、大きなタンクが中央に鎮座していた。
「イワサさん、私はちゃんと仕事しますよ」
禿げ頭を光らせながら、優しい黒い双眸をイワサはきらりと光らせる。
「俺の目は厳しいぞ。ちゃんと隅々まで掃除することだ」
この日はコトとイワサで理科室の液体タンク掃除の当番に当たっていた。
コトは床掃除を丁寧に行いながら、漫然としていた。
かつての学び舎が工場に生まれ変わり、ただ自分は学生から従業員へと立場が変わってしまった。これからこの工場でいつまで働くのか、母はいつ帰ってくるのか、考えれば考えるほど暗い気持ちになる。
「遺伝子工学に必要な液体、ねえ」
コトはタンクに触れようと手を伸ばそうとすると、イワサの目が鋭く光る。
「触るな」
「すいません」
思わず手を引っ込めておびえるコトに、イワサは優しく諭す。
「もしものことがあったら、君のお母さんに申し訳が立たない」
「母は関係ないですよ」
つっけんどうなコトの物言いに、イワサは肩を落とす。
心の傷は癒えるのが遅い。イワサには母の蒸発の傷に心を打ちのめされるこコトが不憫でならなかった。途方に暮れ天井を見上げると、二階のあたりに夕日に揺らめく影を見つけた。
コトは何も気づかず掃除を続け、配管の傍に行く。
「うわ、ここ汚い」
大きなシミを見つけ奥に行く。
すると、突然鋭い破裂音が響いた。二人の体が緊張で固まる。コトはあたりを見回すが、頭上の配管から漏れ出ている空気に気づいていない。
「そこから離れろ」
コトが危機感なく呆けていると、イワサが走って体を引っ張った。だが状況は虚しく、配管から漏れ出た空気は激しくなり、二人を大きな霧が包んだ。
影はその二人を見届けると、その場を後にした。




