2022年3月9日「侵入者と拳銃」
「今日はやけに上の空だな。コト」
午後の作業を終え、廃棄場の近くの小さな休憩所で座っているところだった。白杖を携えたイワサが傍にやってきた。
「ああ、イワサさん。イサキに教えるのが難しくて」
イサキとは年が近く遠慮しなくていいという申し出から呼び捨ての仲にはなった。だが、肝心の教育の面で問題があったのだ。彼は熱心にメモをするが、どうも記憶力が良くない。二時間教えただけでほとほと疲れてしまった。
「そうじゃない。まあ、それも大変そうだったが。別の問題にぶち当たっているんじゃないか」
言いだそうにも、コトの中でも収取がついていない状態だった。ドリーのことだ。
ドリーが言うには、自分は出口のドリーだと。そして、入り口のドリーを丸呑みにしたと言ってきたのだ。
こんな話信じる奴がおかしい。だが、ドリーの面持ちは迫真に迫っていた。
「研究所の奴らにとったら、俺たち二人が減ろうが何しようがどうでもいいんだ。だが、俺の変化を知られたら試験病棟にまた送られちまう。それだけは、それだけは勘弁してくれ」
あの時のコトが、追い縋る男を前に何処まで状況を理解していたと言うのだ。
コトは混乱しながらも、彼の言葉に耳を傾けるしか無かった。ただ、コトにとって引っかかる事実はひとつだけあった。
「私が、あの時事故にあって、ドリーに触ったから」
ドリーは押し黙っている。
「違う。そうじゃない。そう思っていた時もあったが、あれは俺の間違いだ」
「そうなんだろ」
否定されればされるほど、それが事実なのだと突きつけられる。
もし、もしドリーの言うことが本当だとして。入口の陽気な彼は、出口の門番の腹の中で、生きてはいない。
「眠ると、あいつの声が聞こえるんだ。いい席に座れて良かったなって、言うんだ。俺はどうなっちまったんだ」
「今日の朝刊持ってきましたよ」
イサキの声で現実に戻されると、コトは受け取って紙面を読んだ。
皆に回され手垢の着いた新聞紙を読んで聞かせるのも、コトの同僚としての勤めだった。
「スポーツ新聞はなかったの」
「それが、その一部だけしか今日は来てないって、他の皆さんも文句言ってました」
経済新聞は難しい漢字や用語が多いのでコトは苦手だった。
「俺は応援している球団もない。問題は、コトが漢字をちゃんと読めるかだ」
イワサが歯を見せて笑う。
「班長に毎日しごかれてるから、楽勝ですよ」
「冗談だよ。実際助かる。目が見えなくなったのは、白内障が原因で入院して以来だ。前の見えていた頃が懐かしい」
「イワサさん病気を患っていたんですか」
イサキの驚いた声に、、イワサは首を傾げた。
「君も、試験病棟から退院して社会復帰の一環でここに来たんじゃないのか」
二人が会話している間に、コトは紙面に目を走らせた。雨呑の新事業開発が一面、その端に小さく載った記事に目を奪われる。
「双子の兄、弟を丸呑みにして成りすまし」
「なに、もう一度言ってくれ」
物騒な単語にイワサも興味を惹かれたのだろう。イサキも話を中断して新聞をのぞき込んだ。
「読みますね。2022年1月頃、東京某所で一人の男が、双子の弟に成りすまして一か月ほど暮らしていたと供述。兄は弟を丸呑みし、擬態していた。男は記者のインタビューにこう答える。私は弟の人生を乗っ取った。彼に謝罪したいが、彼はもういない。誰も私を裁いてはくれない」
「なんだそのでたらめな記事は。本当に信頼できる新聞かそれ」
イワサの呆れた声が休憩所に響く。コトは新聞紙がれっきとした出版社からのものだとタイトルを見て判別した。
「その男性は精神的な病を患っているんですかね」
「違いない。擬態なんて、そんな昆虫みたいに」
イワサとイサキは大いに盛り上がっているが、コトの腹には何とも言い難い恐れが沸き上がっていた。
この小さな記事が、嘘とは思えない。ありえない話だ。だが、コトは同じ言葉を聞いたことがある。
「俺にも見せてくれよ」
背後から八城がぬっと現れる。イサキの顔が憎々し気に歪むが、イワサは軽い調子でたしなめた。
「おや、八城はまだ新聞を見てないのか。俺はコトちゃんに読んでもらうから、いつも最後なのに。皆に言い出せなかったのかい」
涼やかな見た目からは想像もできない嫌味に、コトとイサキは顔を合わせてぎょっとする。二人の不安は的中し、八城はなんとイワサの持っている白杖を足で弾いた。
「喧嘩ってのはよお、売ったら買われることを知らないのかね」
八城が顔を近づけて真顔で低く唸る。イサキとコトは二人の周りをおろおろするだけだった。
「コトちゃんに脅しをかけているのはみんな知っている。和を乱すな。研究所の奴らに顔が利くのか知らんが、度を越している」
八城が後ろを振り向けば、他の場所でたむろしている従業員たちが横目でこちらを盗み見ていた。八城は鼻で笑い、あろうことかイワサの首根っこを掴む。
「てめえら病人上がりと一緒にされちゃあ困るなあ」
「なに」
「は、耳聡いだけのひょろ坊主が。俺は知ってるぜ、お前本当は目が見えるんだろう」
イワサにだけ聞こえていた声がぐうと音を上げて黙ったのは、イワサの白い細腕が八城の巨体をひょいと巴投げしたからだった。これには場にいる全員が呆然とする。
「コト、杖をおくれ」
イワサの声ではっとなり杖を渡すが、まだ時間は止まったままのようだ。コトは凛々しいイワサの顔を憧れの目で眺めたが、時間を加速させる大声が工場内に轟いた。
「集合」
たったそれだけなのに、班長の声は島中に届くんじゃないかと思うほどだ。
皆がのろのろと広場に集まれば、班長の横には乾学生がいた。ボードを持って浮かない顔だ。
「み、みなさん。こんにちは。私は、雨呑研究所のインターン生、乾です。本日はお日柄もよく」
「乾さん、本題」
班長がせっつくと、乾学生の顔から汗が滲んだ。
「はい、はい。ええ、大変申し訳ないんですが、午後の作業は中止です。今から研究員の捜索活動をして頂きます。はい、大変心苦しいのですが」
乾学生は言葉を発するたびに体を縮こまらせていった。
なぜ乾学生が説明しているのか、質問する余地は我々従業員にはない。その場に不可思議な沈黙が流れる。そんな空気を感じ取り、班長が助け舟を出した。
「研究員は昨晩から失踪している伊崎先生だ」
「ヨシヲ先生か」
イワサが驚嘆したのを皮切りに、周囲にざわめきが訪れる。周囲は試験病棟の出身だからか、余程名の知れた人なのだろう。コトは周りに共感できずあたりを見回したが、なんの反応もないイサキが目に留まった。
「イサキは知ってるの、伊崎ヨシヲって人」
イサキは首を振る。
「ぜんぜん。そうだな、俺はそもそも」
「ざわめくな。いいか、昼休憩が済んだ者から捜索活動にあたれ。解散」
結局その場を班長が取り仕切り、従業員たちは散り散りになった。しかし、コトは話し込む乾学生と班長を横目に、一人でさっさと工場を抜けていった。
足取りは実に明確で、工場から離れた白い浜の所が木々の合間から見える所まで進む。すると、背後から慣れない足取りで坂を下るやかましい音がした。
「おうい、コト、おとと」
おぼつかない足取りでひょこひょこと下りるからか、足を取られたイサキはコトの方に倒れてくる。コトはさっと躱してイサキの背中を引っ掴んで尻もちをつかせた。
「なにしてんの」
「俺昨日今日来たばかりだから、一緒について行っていいか」
考えが足りなかったなと内省し、コトは手を掴んで立ち上がらせた。イサキはずかずかと迷いなく進むコトについていく。
「こっちも気を利かせればよかったよ」
「いや。こちらこそ。伊崎先生ってやつの居場所に心当たりがあるのか」
「まさか。顔自体もあまり覚えていない」
コトが何度か研究所に出入りするときに、何度か声をかけて貰ったことがある。だが、気遣う憐みの視線を向けてくるのは、別に彼だけじゃない。曖昧な物言いをする、影の薄い存在だった。
「このきれいな浜で時間つぶしもいいな」
「きれい、ねえ」
白い浜は廃棄物の大群と言ったら、イサキはどんな反応をするだろう。コトは何も言わず、浜に臨む一軒のウッドハウスに辿り着いた。
「おお、いい家だね。班長の家とか」
「ただ一人残っている島民の家だよ」
ここは鈴来老人の家だ。若い時からこつこつと建て、十年の月日をかけて完成させた家だと聞いている。昨日は来れなかったが、どうしても彼の安否を知りたかった。本当なら夜に訪ねる気だったが、この際捜索の名目で来てしまえばいいと算段したのだ。
扉を叩く寸前、家からシャンプーの良い匂いを運ぶ湯気が頬を撫でた。
人がいる、鈴来老人だ。コトは胸をなでおろす。
「鈴来じいちゃん、いるの」
大声で家の奥に話しかけるが、返答はない。仕方なしにノックをすると、部屋から大きな物音がきこえた。しかしこちらに答える気はないようで、コトの燻ぶった不安が燃え始める。
「なんかおかしいぞ」
イサキも事態に気づいたのか、二人で顔を見合わせる。コトは扉を掴むと、鍵がかかっていないことに気づき開けた。すると、家の真ん中には白い肌にタオルを巻いた赤毛の少女がいる。互いに硬直し、赤くなる少女と驚くコトは対照的だった。
「ミツハなにしてんの」
少女兼ミツハは、コトに言及されしまったと今更ながらに気づいたのだろう。
「あの、えと、これには訳が」
「鈴来じいちゃんちで、何してんのって言ってんの」
コトが大声で詰め寄ると、ミツハが後づさる。
「え、誰もいなかったよ。ほんとほんと」
「早く服着てよお」
イサキの悲鳴にコトとミツハは顔を合わせ、確かにと頷くとミツハは脱衣所に戻っっていく。
「ミツハ出ていったよ。もう目を開けていいから」
「あの子だれなんだよ。びっくりした」
「研究所にバイト面接を受けに来た子なんだ。なんだっけ、裏バイトだったかな。まあとにかく、なんでここに来れたんだ」
お待たせ、とミツハが出てくるとコトは話を中断してソファに座った。ミツハはコトの対面に座り、まだ緊張しているイサキはコトの横に構える。
「鈴来さんはどこ」
「だから知らないって。行くところがなかったから、空き家のここを使わせてもらったの」
話を聞いても堂々巡りだ。
「ここは鈴来さんの家だ。空き家じゃない。家具だってちゃんとあるだろ。嘘つくな、どうやってここに辿り着いたか知らないけど」
考えるほどに頭が痛い。消えた研究員を探しているうちに、侵入者である部外者のミツハを見つけてしまうなんて。班長にどう説明したらいい。鈴来老人もまだ帰ってきてないとなると、問題は解決するどころか増える一方だ。
「本当に、何回かノックしたもん。でも誰もいないし、帰っても来ないし、日は沈むし、お腹すくし体汚いし、でもベットはあったからついつい。あとつけてきたのは悪いけどさあ」
むくれるミツハを前に眉間を抑える。つけてきたということは、自分の不注意で招き入れたということか。余計に言いづらくなった。
「なんで大人しく地元に帰らなかったんだよ」
「地元が嫌で出てきたのに、なんで戻らなきゃいけないのよお。コトみたいに働いて、自分の力で生活したかっただけなのに」
「雨呑研究所の治験バイトのことですか」
先程まで沈黙を貫いていたイサキに、ミツハの顔が明るくなる。
「衣食住付きのやつ、それ」
「衣食住付き、最低一か月から無期限、遺伝子組み換えなしであることが条件」
ミツハが興奮気味にそれだよと目を輝かせた。一方コトは流暢に喋りだすイサキを不審に思ったが、手元には一冊のノートが握られていた。それは、コトが班長から貰った日記帳と同じであることが目を惹いた。
「それ、班長から貰ったやつか」
コトが聞くと、イワサの顔つきが引きつり急いで閉じた。
「ああ、そう。俺物忘れ激しいから、書いとけって」
コトがそのノートに手を伸ばす。イサキは何も言わなかったが、顔にはなぜか汗が流れていた。そのノートには、先ほどイサキが述べたバイトの内容が書かれている。それも、えらく詳細に。
「これ班長が書いたのか」
イサキは首を傾げる。
「わ、わからない。俺の字に見えなくもないが、書いた覚えはないんだ」
だから困惑しているのだろう。しかし、この字は明らかに班長が書いたものではないとコトは断言できた。走り書きしたこの字は、まるで絶命寸前に記そうとした殴り書きにしか見えない。
コトの人差し指が次のページをめくろうとした瞬間だった。
「ねえコト、だいじょうぶ」
ミツハの声に顔を上げる。
「ほんとだ、顔色悪いぞ」
イサキすらも心配そうな顔だった。
コトはイサキのノートから手を離し、顔を両手で擦る。
昨日に引き続き、わけのわからないことばかりだ。何かが引っ掛かる、何かが変わってしまう気がする。嫌な予感ばかりが胸を締め付け、日常が侵されていくのを肌で感じる。
「ちょっと、外に出るわ」
コトは体を引きずって外に出た。家の近くにある一本の樫木を見て、幼い頃鈴来老人に遊んでもらったと懐かしくなった。木に触れる。木漏れ日が体に降り注ぎ、肺に新鮮な空気を取り込んだ。
鈴来老人はどこに行ったんだ。入口のドリーも、そして母も。
コトは木の根に背を預けうずくまると、妙な引っ掛かりを覚えた。根元に触れると、そこに指をひっかける隙間がある。幼い頃にはなかったはずだ。
指をかけ引き抜くと、人工的に切り抜かれた蓋が外れる。その奥に手を突っ込むと、黒いL字の重い装置が出てきた。コトは見慣れぬ装置に首を傾げた。この手を伝う異様な存在感に戸惑う。
「なにしている」
振り返ると、イワサが白杖をつきながらやってくる。どうやってここまで来たのか尋ねる事も出来ず、まごつきながらイワサは駆け寄ってきた。
「イワサさん、これが」
イワサの手に物体を触らせると、彼は恐る恐るその形を確かめていった。触るたびに、イワサの顔から血の気が引いていく。
「これは拳銃だ」
聞き慣れない言葉だった。しかしイワサの異常な反応に、コトの手が少しずつ震えだす。
「どうしてこれが、木の中に」
「これをすぐに渡しなさい。ほら、手を離して」
イワサの手が力強くコトの手から拳銃を取り上げる。
「け、拳銃って、なんですか」
「火器だ。弾丸を飛ばして撃てば、体を貫く危険なものだ」
イワサは自分で説明しながら、掴んでいるものが恐ろしくて震えていた。ふとコトの顔を見れば、青くなり今にも倒れそうになっている。
「はあ、それって、パイプでも、撃てますか」
意図がわからず聞き返そうとしたときには、コトの体は地面に倒れ伏せてしまっていた。




