2022年 3月9日 「コトとフミの父」
「おっちゃんアイスちょうだい」
「クリーム。アイスクリームな。言葉はちゃんと覚えときな」
島にある唯一の駄菓子屋で店主からアイスクリームを受け取り、ベンチに座った。コトは小さな口で白い甘味の山をほおばり、遠い陸地に目をやった。
煙突から煙が出ているあたり、あそこには母が働いている。
「あの島でお母さん何してんの」
「島はこっち。あっちは陸地。学校でなに勉強してんだか」
「できてるよ、あ」
お母さん、と手を振れば坂から母の姿が見えてくる。コトは母の体に抱き着いて頬擦りした。
「いつもありがとうございます」
店主は奥で手を振った。
「お母さんはやく」
はいはい、と母が相槌を打つ。母の後ろからのんびりとした足取りで、フミとフミの父がやってきた。
「コト」
コトは母に甘えていた手を離して顔を赤くする。
「フミのお父さんも来てたんだ」
「こんにちは、コトちゃん」
所長兼フミの父が優しく手を振る。
日に焼けた腕を振り回しながら、フミがコトに抱き着く。コトは、フミと二人でいれば寂しさなど吹っ飛んだ。母の仕事の帰りが遅くても、学校に居場所がなくても。
視線を感じ振り返ると、三人の人間が遠くからこちらを見ているのに気付いた。三人とも学校でコトをのけものにする親たちだ。こそこそと話し合い、憎しみさえ感じる眼光をぶつけてくる。
「見なくていいの」
見上げれば、母が優しく諭してくれている。
「あの三人には私から言っておきます。チームワークに関わりますから」
フミの父の小さな声が、コトの耳にこそこそと聞こえてく。
「所長自ら出て頂かなくても。この件は私の問題ですので」
「いえ、野中先生の判断はわかります。子を持つ親なら、誰だって」
「何の話してるの」
二人はコトに曖昧な笑みを向ける。
「何にもない。今日はコトの好きな野菜炒めにしようか」
母が歩いていく後ろをついていき、帰路を辿る。
「お母さん」
母の大きな背中を追いかけながら、後頭部を照らす西日に目を細める。
「なあに」
「待って、早いよ」
母の歩みは変わらない。焦りから一生懸命走っているのに、母の歩みに追いつけない。腕を振って走っているのに、母は西日に今にも吸い込まれそうだった。
「おかあさん」
言葉半ばで声が萎む。視界には薄暗い体育館の天井だった。
体を濡らす汗をぬぐい、上体を起こせば雑魚寝で痛めた背中をさする。背の丈ほどのパーテーションでしきられた個室で、昨日捕まえた鈴虫に鰹節をやった。
夢を見るのは久しぶりだった。
誰も起きていないのをいいことに、こっそりと目じりの涙を拭う。コトは作業着に着替え、念のため一畳の下に隠した封筒を確認した。
コトはいつものように窓から身を投げ、フミの家ではなくそのまま下に降りた。膝をクッション代わりに地面に着地すると、緩やかな拍手が聞こえた。
「ブラボー。まさにねずみ小僧だな」
コトは寝起きの顔を拭い、緊張した面持ちで八城の所に歩み寄る。
「早く済ませましょう」
「まあ焦るな」
八城は近くの腰掛に座るよう指示する。そして小箱から指に嵌める用の機械をとりだし、右手の人差し指に入れる。
「いて」
ホチキスを閉じたような音が鳴り、鋭い痛みが走る。機械のランプが青になり、八城はその機械をさっさと箱にしまった。
「これから毎日する。誰にも言うな。特に、研究所の連中にはな」
コトは指先を舐める。
「なんなんですか今の」
「聞くな。知りたけりゃ、俺の手伝いを粛々とこなしていくことだな」
八城の言うことを聞いていたら、いつか取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。コトは黙っていたが、八城はコトの目元の赤い涙あとを発見し、舌打ちして絆創膏を渡した。
「指に巻いとけ。いいか、誰にも不審に思われるな。さっさと行け」
「はあ」
コトが幾重にも改装された塗炭の屋根に飛び乗り、その場を去ろうとしたとき。
「なにか変なことはなかったか」
飛び移ろうとした体が後退する。振り返ると、顎に手をやり思案顔の八城が、意味深げにこちらに視線を寄越している。
「身の回りでですか。それとも、イワサさんみたいなことを言ってますか」
早朝に妙な勘が働いたのか、コトは考えを巡らせて答えた。コトの様子に自分の知りたいことは何もないと悟ったのか、八城はあっちいけと手を振った。
「なにもなけりゃいい。ただ、何かあったらまず俺に言え。研究所の連中には絶対に言うな」
「その意味も、まだ教えてくれないんですか」
「いずれわかることさ」
八城の不敵な笑みに背筋が凍え、コトは身軽な動作で体育館の屋根に上り、屋根を伝ってフミの屋敷へと向かっていった。
時折貧血のせいか休み休み、息を切らしながら走っていく。
ようやく屋敷が見えた頃には太陽がいつもより少し高く、急げ急げと窓のテラスへと飛び移る。
「はああ、はーっ、は、えほ、ついた、やっと」
声が聞こえないので中に入ると、驚いた顔でベッドに横たわるフミがいる。
「すごい疲れてる、水飲みなよ」
フミは部屋の真ん中に置いてある水とコップをコトに勧め、疲れたコトはそれに従った。水道水とは違うすっきりした味に感動しながらも、心配そうにフミを見る。
「今日体調悪いの」
フミは困り眉を作って肩をすくめる。普段は起き上がってくるのに、今日はベッドから体を動かすこともできないのだろう。
「朝から全身が痛くて。私にも水をちょうだい」
コトは水を注いだコップをフミの口元へもっていき、彼女が快適に飲めるよう傾けていった。フミの白く細い喉が脈打ち、ポンプのように渇きをいやしてくれる。
「リウマチ、よくなったらいいのに」
「ありがと。コトの貧血もね」
「貧血は病気じゃないよ」
「そんなことない。人の体に大なり小なり負担がかかっているのよ。お父さんは、みんなから病気がなくなるよう研究してるんだから。コトの貧血も治るの」
伏せがちな瞼が夢でも見ているのかと思わせる。
コトはコップを戻し、フミの体調も考えて早々に退散しようとしたところだった。
「今日も来てくれてありがとう。外から出ると大変だし、階段使いなよ」
有難い提案だったが、それには二年間避けてきた難題が立ちふさがる。
「でも所長に見つかったら」
フミの父は研究所の所長だ。昔は母を通して気安い仲でいれたが、いまは上司と従業員。ましてやリウマチを患った娘に毎朝ちょっかいをかけにくるなんて知れたら。
「そんな顔色悪い友達を窓の外から放れないよ」
コトは自分の頬を撫でる。部屋の壁にかかった鏡を覗けば、フミよりも青白い自分が映っていた。コトは友人の言葉に倣い、ひっそりと扉を開け階下に降りる。
階段を下りるのにも手すりを掴まないと、足元がふらついた。本人でも気づかぬ内に疲労がたまっていたのだ。母の行方、自身の立場、人間関係、あらゆることがストレスとなって負荷になる。
一階に降りれば、ウッド調の室内が広がっている。カーテンで遮光された室内には、清潔な空気が漂っていた。コトが宿舎に移る前の家よりも、断然快適な空間だ。
「さすが所長の家」
「光栄だね」
横を見れば、眼鏡をかけた聡明な男性が一人。微笑む彼と青ざめるコトは対照的だ。
「しょ、しょちょう、その」
「いいよ。知ってるから」
「い、いつから」
「最初から」
うなだれたコトに所長は優しく声をかける。
「怒ってないよ。フミは私といてもつまらない顔をしているから。コトちゃんと話しているときだけ、楽しそうなのは」
コトは緊張の解けない顔をしているが、フミの父はコーヒーカップに口づけた。あたりをカフェインの香りが漂う。
「所長、質問よろしいですか」
コトの真面目な口調に苦笑しながら快諾する。
「なんだい」
「母についてお伺いしたいのですが」
フミの父の眼鏡が曇る。
「野中先生については、本当に心苦しい。私には、どうすることもできないんだ」
「せめて、母の行方に心当たりはありますか」
フミの父は首を力なく振る。
「すまない」
「い、いいえ。私も朝から失礼しました。所長はこれから出勤されますものね」
出勤、という言葉に所長の目が揺れる。
「あ、ああ。そうだね。コトちゃんも工場で仕事かい」
「はい。でも午前は研究所に出向きます」
フミの父の目が見開く。
「え、そうなのかい」
「はい」
フミの父が狼狽する姿にコトは首を傾げた。所長の仕事は従業員の動向を把握する必要はないのだろうか。もしくは、口ばかりで本心はあまりコトのことは気にかけていないのかもしれない。そう思うと、コトは疑問を呑み込んだ。
「なんの力にもなれない私から言うのは気が引けるが、研究所で私に会っても話しかけない方がいい。君のためを思って言っているんだ」
フミの父は扉を開き退出を促し、コトはただ従うしかない。




