2022年3月8日「コトと役人鈴来」
日は必ず位置を変えて地平線の先に沈む。これは一生涯変わることのない不変の道理だ。区役所にたむろしていた住民たちが着々と去っていく中、とっくに五時を過ぎた。
何度か工場に連絡するのも疲れ、待機席で座っているのは自分一人だ。
呼び出し番号が呼ばれとぼとぼとした足取りでレジに向かうが、そのまま個室に案内された。そこにいたのは鈴来老人の息子がいた。
「ごめんねコトちゃん。ずいぶん遅くなって、職場は問題なかったかな」
問題がないわけない。帰る時間も大幅に遅れ、私用で出かけているせいか帰った後が問題だ。正直今は母のことも知りたいが、同じくらい早く終わってくれと願うばかりだ。
「ほんと、六時間ぐらいいますよ」
ここで怒鳴れないのがコトの人好しな部分だ。鈴来は申し訳ないと一礼し、戸籍附票を絲一枚見せてきた。
野中稲美 1979年生まれ 兵庫県香美町特別区雨呑村
青い紙の上には、小さな枠でそれだけしか書かれていない。以前八城に聞いた話では、附票は転入をした際に移動履歴が載るそうだ。戸籍の中に入っていれば、全員を辿れる。戸主は母親本人だろうから、戸籍を抜けられないと。
「よく聞いてくださいね」
鈴来の神妙な面持ちに気づかず、コトはじっと附票を見る。
「これ、ノナカ、なんて読むんです。これが附票ですか」
「ああ、ノナカイナミさん、君のお母さまだよ」
丁寧な物言いをおかしく感じたが、黙っていた。早く帰りたかったのが本音だ。
「母は届けを出していなかったんですね」
聞いたところで、母の足取りは掴めずじまいなのは変わりない。帰ろうと立ち上がった時、鈴来に座るよう促される。
「ここからが本題なんだ。もうちょっと待って」
「まだなにか」
渋々座ったが、鈴来の顔はいつになく緊張していた。
「今日聞いたことは誰にも言わない、いいね」
「どうしたんです」
附票を指さしたのは、母の名前の前の箇所だった。
「この苗字に覚えはあるかい」
ノナカの部分だ。コトは母の名前のイナミはわかってはいたが、苗字の部分は記憶にない。漢字で正式に書かれると、別人の印象すら受ける。
「いや、まあ、どうだったかな」
「はっきり答えて」
「し、知りませんでした」
鈴来は大きくため息をつくと、周りに職員がいないか確かめる。
「君は、野中稲美さんの戸籍にはいない」
戸籍、日本人は生まれたときに出生届を出す。そして保護者の戸籍に入るのだが、小学校以来学校で授業を受けていないコトには知らない事実だった。
「いない、いや、私はいますよ」
「落ち着いてね。ないっていうのは、つまり、君が生まれた出生届が国に提出されていない」
疲弊した頭に言葉が流れ込んでくる。鈴来の言っていることは最初の言葉だけしか理解できなかったが、あとの言葉も同じ内容を薄めた話だった。
母の行方を辿るつもりが、私が存在していなかったなんて。
実感は湧かなかったが、鈴来の顔つきを見るに口外に漏らしてはいけない機密内容なのだろう。業務で知りえた内容を伝えるのは、班長にもきつく止められているからコトにもわかった。
「私そろそろ、宿舎に戻らないと」
鈴来がああと言葉をのむ。
「コトちゃんごめんね、未成年の君を長く居させすぎた」
「鈴来のじいちゃんは、子供が生まれたとき出生届を出したんですか」
「出したのは父さんだね。母はその時入院してたから」
「普通は、そうなんですか」
ああ、と曇った顔で答える鈴来の目に疲れ切ったコトの顔が映る。
コトはポケットから三百円の硬貨を出し、レシートを受け取らず帰っていった。
区役所の職員が終業の準備をしている間、コトを受付した女性が様子見で近寄ってくる。
「会社はなにしてるんでしょうかね。まだ十四ですよ」
「雨呑は昔からこの地域の活性化に役立ってくれてるんです。悪く言うのは止めましょう」
鈴来はそう言うしかなかった。




