プロローグ
重みではなく、興奮で震える。
この一冊の手掛かりを元に、この世界を陥れた人物の正体を暴くことが出来る。
何故この世界が歪んだか、何故そんなことをしたのか。必要があれば、この手を汚すことだって厭いはしない。
決して大袈裟ではない。俺はいま、混沌とした世界の核心に触れたのだ。
口に加えた懐中電灯の光が、文字列を震えながら照らす。書かれている文字は罫線をはみ出し、書きたいように規則性なく書き殴られていた。
汚い字だ。この日記の作者の性格をよく表している。
混沌とした、そして気性の荒い人物像。この世界に一滴の波紋を作り、社会を崩して分断を産んだ悪魔。
「どこだどこだ」
ページを捲る音さえも煩わしい。
暗い書庫でいまは静かに物色出来るが、いつ人が来るかも分からない。
こんな所を見咎められたら、所属している集団を追い出される。こんな辺鄙な土地に置いていかれたら、俺のような貧弱な男はすぐに命尽きるだろう。
世が無常だとは常々思っていたが、その通りだ。この歪んだ世界を治す手がかりがあればと忍び込んだ書庫の日記帳には、望んだものは何も無かった。
今日何があったとか、誰と会ったとか、楽しかったとか。そんな他愛のない日常しか書かれていない。
恐怖からか懐かしさからか、涙が溢れた。いつ誰かがくるかという恐怖。そして、もう二度と誰の手にも渡ることの無いありふれた日常の内容に、愛しさを感じた。
ふと、滲んだ視界にたった二行の文字が書かれているのに気づく。
事故にあった。イワサさんの目はどうなってしまうのだろう。
簡素ゆえに目を引く文だ。白紙にたった二行。
「だれかいるの」
横を向けば、懐中電灯を手にした女性が書庫の入口から問いかけてくる。光を向けられ咄嗟に日記を隠す。
「お、俺だ」
動揺して声が震えたが、出来るだけ明瞭に答えたつもりだった。
「あんた」
近づいてくると赤毛の長髪姿、華奢だがスタイルの良い女性像が浮かんでくる。しかし、眉間には懐疑と不機嫌が浮かんでいた。
「すいません」
怒鳴られる前に先手を打ったが、女性の眉間はより深くなる一方だった。
「私が宿直の時に問題起こすなよ。だるいな」
「ミツハさん、本当にすいません」
「新人のくせに深夜徘徊、不法侵入、よくやるよ」
ミツハが長い指を折ってねちっこく詰め寄る。
「本当に申し訳ない。まだルールわかっていなくて」
顔の筋肉を使ってできるだけ謝罪をアピールするが、ミツハの鋭い視線は緩みはしなかった。それ以上に相貌がきつくなる。
「いいよ。形だけっしょ、それ」
あきれ返った彼女の言葉に、俺は気まずさで俯く。そんな俺の様子を、ミツハはつぶさにねめつけた。当然彼女は、この男の隠した真意を見抜いている。
「最初からこの書庫に忍び込むつもりで、この村に来たんだよな」
俺は彼女の顔を見上げた。日記帳は背後に隠したつもりだが、抜かれた本棚を見てミツハは俺が良からぬことをしたと勘づいたのだろうか。
何も言えずミツハの目を見つめ返したとき、くすんだ黒い相貌に映った自身を見た。そして確信する。俺の年不相応な童顔が、憎々しげに彼女を睨んでいる姿が。
謙虚の欠片もない、まるで悪魔でも見ているような。
「だったらどうなんだよ。反逆者ども」
「すげえ手のひら返しじゃん。ウケる」
「汚い言葉遣いだな。お前はずっと気に食わなかったんだよ」
日記を背後に、俺はポケットから取り出したナイフを突きつける。ミツハは怯み、詰め寄った距離を大きく離した。
「危ないって。しまえそれ」
「自分たちが、何してるかわかっているのか」
両手を耳の高さに上げていたミツハの顔が不可解だと言わんばかりに口を開けた。
「あんたにだけは言われたくないんだけど。外の世界だけで十分だわ、そういう殺伐とした空気」
「こんな世界になったのは、お前らのせいだろうが」
ミツハは何も言わない。
「感染症のせいだよ。誰のせいでもない」
俺は怒りで頭が真っ白になった。
「その感染症をばら撒いたのは、お前らの仲間だろうが」
俺は背後に隠した日記を見せつけた。
「ただの日記じゃん。あんたもこの村に転入してくる時聞いたでしょ。一人一冊日記を書きましょうって。ね、このこと黙っといてあげるから落ち着いて」
「この日記を書いた人間が、俺をこんな目に合わせたんだ」
俺の右手はもうすでにナイフを持つことができず、やかましい音を立てて床に落ちる。ミツハは即座にナイフを拾い、俺の動きを封じようと視線を移す。だが、その時には俺の体は跪いていた。
「イザキ、イザキしっかりしろ」
先ほどまでの敵意は何処へやら。ミツハは倒れる侵入者に駆け寄り、上体を支える。あれだけ大事に掴んでいた日記は落ちるが、イザキの顔は苦痛で悶えていた。
「触るな、俺は、もう感染している」
イザキも駆け寄ってきたミツハを意外に思っているのだろう。気遣う素振りを見せるが、ミツハは乾いた笑いで答えた。
「気にすんな。私なんか十年前に、とっくにかかってるよ」
ナイフを持っていたイザキの手は成人男性のそれとは比べ物にならない大きさになっていた。右手だけ。まるでタンポポの綿毛のような小さな、白い無垢な手。
この未知なる感染症は、人にそれぞれに応じて症状が異なる。
一般的な薬で対応できない。六十七億人に対して、同数の対処法があるからだ。
「いつから始まった」
「い、いちねん、まえ。父が、死んでから」
「そこまで聞いてない。ひとを呼んで、医務用ベットに運ぶぞ」
立ち上がるミツハの手を、イザキはまだ縮んでいない手で掴んだ。
「俺は知りたい。なぜ、俺たちはこんな目に合わなきゃいけないんだ」
「イザキ、呼吸が」
荒くなっているのは症状のせいだけではない。感情の高ぶりが抑えられなくなっている。
「父が言ったんだ。こんな世界になってしまったのは、母のせいだと。俺の、俺の母が」
ミツハの目が見開く。
「お前、コトの息子か」
俺は頷いた。
コト、そんな名前だったような気がする。記憶が熱でうなされてあやふやになっていくのがわかる。顔知らぬ母、最初で最後に聞いた最悪のエピソードだ。
この世界を感染症で埋め尽くした母。
俺の体を蝕んだ母。
「頼む。教えてくれ。死んでしまうまえに」
ミツハは落ちた日記帳を手にし、ページをめくった。
『2022年3月8日 晴れ 母を探しに役所へ行った』
「それがそもそもの始まりだったのかもしれない」