千円婆さん
今から数年前……僕が大学四回生の頃です。
その存在を初めて聞いたのは、同じゼミ生との雑談でした。
「この前の休日、変なお婆さんに声をかけられちゃって」
語られる話に耳を傾ければ、なんでも某商業施設に買い物へ訪れた際に、エントランスの手前で突然見知らぬお婆さんが肩を叩いてきたのだといいます。
「ねえ、ちょっと。ちょっとお嬢さん」
困惑している彼女に、お婆さんは懐から千円紙幣を取り出すと、何度も折り畳まれた跡が残るシワシワのそれをグイと胸元に押し付けてきて、
「これ。あげる」
いや、いらないです――そう答えるも、お婆さんはひたすらに「いいから。あげる」と繰り返し、存外に強い腕力でグイグイ千円札を押し付けてくる。
怖くなった彼女は「大丈夫です、いらないです」と言葉を残して、慌ててその場を離れたのだと……そのような話でした。
「えー、くれるっていうなら、貰っとけばいいじゃん」
その場にいた他のゼミ生がそう言うも、
「やだよ、何かあったら怖いし」
「そうかなあ、そうかも」
僕も「世の中にはいろんな人がいるよね」と当たり障りのないことを話して、まあ、そんな形でこの話題は終わったのですが……まさかその後、今度は話を聞いていた僕自身のもとに、この奇怪なお婆さんが現れることになろうとは、全くこの時は思いもしませんでした。
当時の僕は、あるコンビニでバイトをしていました。
大学からも下宿からも近いそこは、日常的に生活費を稼ぐ場所としてはとても良い立地でした。
同じ大学に通う学生は生活圏が被ることが世の常なので、もちろん先ほどの話に出ていた商業施設――そこにもほど近い場所でした。
例の「千円婆さん」の話を大学で聞いてから、そろそろ一か月が経とうかという頃です。夏でした。
ある日の夕方、シフトに入ってレジに立っていると突然横手から声をかけられました。
「ねえ、ちょっと。お兄さん」
目を向ければ、入り口そばの……カフェドリンクなんかを受け渡す場所、と言えば伝わるでしょうか、そのレジ横手の空間にお婆さんがひとり詰め寄っていました。
夕方の混み合う時間帯よりもちょっとだけ早く、店内は嵐の前の静けさのようにガランとしています。シフトに入っているもう一人のバイトも奥のバックヤードで飲料の補充をしていて、カウンターには僕しかいませんでした。
(いつのまに入店したんだろう……)
そんなことを思いながらも、そばに寄って「なんでしょう」と答えます。
60から70代くらいの、品の良さそうなお婆さんでした。白髪を後ろで纏めて、白っぽいワンピースを着ています。
「これ……お店の代表に渡してください」
そう言って取り出すものは、おそらく手紙でした。
たぶんA4のコピー用紙なんかを折り畳んで糊付けしたのだろう不格好な形の封筒が、なにやら分厚く膨らんでいます。
表面には見知らぬ名前が書かれてあって、いたるところにカラフルなデコシールが貼ってあります。
「えっと……すみません、そういうものは受け取れません」
そう断ろうとしますが、対するお婆さんは
「いいから。渡して」
と頑固に封筒を押し付けてきます。
なんだか面倒臭いお客さんがきちゃったぞ……そんな思いを隠しながら、僕は「それに」と封筒を押し返しました。
「こちらのお名前の方も、現在の当店にはおりませんので……」
お婆さんは「店の代表」と言っていましたが、宛名書きの名前は全く見た覚えがないもので、現在のオーナー店長のものでも、その以前にオーナーだった人とも異なります。もちろん、バイトの誰かの名前でもありません。
しかし、この言葉を聞くなり、お婆さんの目つきが変わりました。
「――それじゃあ、あなたでいい」
ジッと蛇のような目つきで僕の顔を覗いています。
「え?」
思わず固まる僕の手に、なおも封筒を押し付けて繰り返すのです。
「もらって。いいから。あげる……」
ほとほと困ってしまいました。
そのときです。
「どうかした?」
監視カメラ越しに気がついたのでしょう、裏の事務所にいた店長がカウンターまで出てきました。
「あの……お客様が」
僕が説明する間も、お婆さんはグイグイと封筒を押し付けてきます。
店長はしばらく唸ったあと時計を見て、それから頭をかくと、
「……わかりました。渡しておきます」
そう言って、お婆さんから封筒を受け取りました。
……コンビニには実に様々な人間が訪れます。
深夜のシフトにもなれば、露出狂などの不審者が訪れることもざらでした。
このお婆さんも、あるいはその類の存在だと睨んだ店長は、ひとまずあしらって帰ってもらうという選択をとったのでしょう。
現に店長が受け取った途端、お婆さんは薄く笑って、そのまま無言で店を出て行ったのです。
店長とふたり、事務所に入ると封筒を開けてみました。
そしてこのときになって、ようやく僕は言い知れぬ悪寒に絶句します。
中には手紙なぞなく――ただ幾枚もの折り畳まれた白紙と、そして一枚のシワシワな千円札が入っているのみでした。
実に奇怪です。
宛名の名前について確認してみても、僕より長く勤めている店長にとっても、やはり見知らぬものでした。
目的が全くとして分からず……見慣れているはずのその千円札が、ただただ不気味な空気を纏っていました。
大学で聞いた話が脳裏に過ぎり、あのお婆さんがそうなのだ――そんな確信が心に芽生えました。
それはそれとして、現金を渡されたというのは面倒です。
「どうしましょう……」
相談すると、店長は「アー」と実に面倒臭そうな声を出して頭を掻いたのち、
「あとで募金箱にでも突っ込んどくわ」
そう言って封筒ごとデスクの引き出しに放り込むのでした。
そしてその日はその後には何事も起こらずバイトを終えたのですが――その翌日からです。
ちょっとずつ、けれどたしかに店長の様子がおかしくなり始めたのです。
なにもないところで一人笑っていたり、怒鳴っていたり……といった様子を、バイト仲間が何人も目撃したといいます。
ついにはやがて、支払い給料を誤魔化していただとか何かの罪が発覚し、店長は解雇されてしまいました。
人当たりの良い店長とは僕も仲良くしていて、だからこの事件は大変なショックでした。
店もリニューアル準備ということで一時閉店することになります。
バイト仲間の殆どは、やがて本部から送られてくるらしい新しいオーナー店長のもとで再雇用されることになりましたが、僕はそのままコンビニのバイト自体を辞めることにしました。
というのも、先の事件のショックを引きずっていたのと、大学院受験も間近だったこともあり、受験勉強に集中するためでした。
……そしてそれら事情のほかにもう一つ、この頃の僕は身辺でなんだか妙な気配を感じていたのです。
例えば深夜に金縛りで目が覚めたり、一人暮らしの下宿の部屋に誰かの息遣いを感じたり、地下鉄のホームでひとの顔にしか見えない染みと目が合ってしまったり……。
それらは小さな出来事の積み重ねから想像しただけの、ただの勘違いでしかないのかもしれません。
ただ、当時の僕は……どうしても、あの日の老婆の手紙と店長の変心、それらに繋がる何かであるように思えてならず、さっさとバイト先から離れたい一心でした。
現にそのコンビニへと近寄ることが無くなった途端、身辺の怪異はパタリと息をひそめたのですから、あながち見当違いの妄想ではなかったのかもしれません。
ともあれ、あのお婆さんは一体何だったのでしょう。
何を目的としていて……千円札を配ることに何の意味があるのか。この千円札を受け取ってしまったそれが、直後の店長の変心に本当に関係しているのか……すべては今もなお謎のままです。
今回のお話は以上です。
皆さんも、もしも見知らぬ人から突然千円札を渡されるようなことがあったとしても、それを受け取ってしまうのは、よく考えた方がいいかもしれません……。
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また、このお話は以下の番組(後編)で取り上げて頂きました。
怪文化追求サークル「ワニザメ党」の方々が主催されるラジオです。バックナンバーも豊富ですので、怪しいものにご興味がある方は是非一度ご視聴どうぞ。
怪民談義・髏 #2「みんなで怪民座談怪SP ~2022~(前編)」
(https://www.youtube.com/watch?v=1YzKbNh8xgg&t=2894s)
怪民談義・髏 #3「みんなで怪民座談怪SP ~2022~(後編)」
(https://www.youtube.com/watch?v=1JurtzPccWE&t=10s)