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「ただいまあ」

夕飯を食べ終え、洗い物をしているときに、母が帰宅した。洗い物の手を止めず、リコは声を返した。

「お帰りい。早かったねえ」

「うん。仕事が速く片付いてね」

隣のリビングから声が返ってくる。

「リオには会ってきた?」

「モチのロンよ」

リコは苦笑した。死語といってよい古い言い回しを、母は好んで使う。

「私も夕飯食べたばかりだから、まだ暖かいよ」

「わかった。ありがとう」

「じゃあ、私お風呂の準備するから」

「いつもすまないねえ」

「それは言わない約束でしょ」

答えた後、リコはくすくす笑った。母も一緒に笑っている。



ゆっくりと湯船に浸かる。小さく息が漏れる。お風呂は大好きだった。リラックスできる時間だ。大好きな時間だった。

入浴剤には『ゆずの香り』を使っている。ほのかに立ち上ってくるこれがゆずの香りなのかと問われれば、答えに窮するのだが、体をほぐしてくれる香りではある。

体が温まると、一旦、湯船から出る。

リコは体を洗うとき、左腕から洗う。そして右腕、胸、お腹、背中、腰、左足、右足、の順番で洗うのだが、確か体を洗うその順番で性格を占う占いがあったと思ったのだが、記憶違いだろうか。

今度友達に聞いてみようと、心のネタ帳に記憶しておいた。



お風呂上りのぽかぽかと暖かい体で過ごす就寝前の時間も、大好きな時間のひとつだった。

眠るためにベッドにもぐりこみ目を閉じる――この瞬間は至福のときだ。

おやすみなさい。明日も良い一日でありますように。



眠りの底から意識が浮上する。そのさいに声が聞こえた気がした。きっと夢の名残だろう。一体どんな夢を見ていたのか。

「よさんか……」

甘えるように、女の子の声が聞こえたのだ。


リコはがばと身を起こした。

夢の続きを見ている場合ではない。麦丸を散歩に連れて行かなければならないのだ。

パジャマから着替えると、階下に降り、顔を荒い歯を磨き髪を梳って、食卓に向かう。

今日は母が朝食の用意をしてくれていた。

「おはよう」

「おはよう。早いわね」

「麦丸を散歩に連れていかなきゃならないから」

「いつも大変ねえ」

「日課ですから」

娘の答えを聞いて母は不満そうな顔をする。おそらく『それは言わない約束でしょ』と返して欲しかったのだろう。そんな母は放っておいて、リコは麦丸のもとに向かう。

麦丸はすでに犬小屋から出て、尻尾をぶんぶん振っていた。


「おはよう、麦丸」

「おはよう、リコ。さあ早く散歩に連れて行ってくれ」

時間が静止したようにリコの体が固まった。

誰? 今喋ったのは誰? 深みのあるこの声は誰のもの?

「何を突っ立っている、リコ。俺は待ちかねているぞ。早く散歩に連れて行け」

尻尾をぶんぶん振り続けている麦丸の口が開いたり閉じたりした。しかし泣き声は聞こえない。代わりに人の声が聞こえる。まるで麦丸が喋っているようだ。

「リコ、どうした。顔が変だぞ」

「お」

麦丸の口がまた開閉する。リコには失礼な言葉に憤る余裕はなかった。

「お母さあああん!」

家の中にとってかえす。台所に駆け込むと

「お母さん!」

「どうしたの。大きな声出して」

「麦丸が! 麦丸が喋った!」

「あらまあ」

「もっと驚いてよ! 麦丸が喋ったんだよ。『おはよう、リコ』って言ったんだよ!」

「きちんと挨拶するなんてえらいねえ。リコの躾がいいからだね」

「そんな問題じゃない! 喋ったんだよ! 麦丸が喋ったんだよ! 『おはよう、リコ』って日本語で!」

「それは麦丸は秋田犬だもの。喋るなら当然日本語よねえ。ふふ」

「何言ってんのお母さん。そこ笑うとこじゃないいよ。麦丸がね、喋ったのよ!」

「それは喋るわよ。犬なんだもの」

「犬はふつう喋んないよ!」

「じゃあ麦丸はふつうじゃないのね。特別ってことになるのかしら。素敵」

「お母さん変だよ。麦丸が喋ったんだよ。もっと驚いてよ」

「そう言われてもねえ」

「麦丸が喋ったのに……」

何度目かに繰り返したその言葉は力ないものだった。なぜ母は驚かないのだ。麦丸が喋ったのに。犬が喋ったのに。ありえない! と叫んで頭を抱えてもおかしくないほどの驚きの事実なのに。そんなにたいしたことではない、という態度ではないか。――もしかしてそうなのか。犬が喋ったところでそれはたいしたことではないのか。いやいやいやいや、そんなはずはない。

母の反応は明らかにおかしい。もっと驚いてもいいのに。

娘に中断されていた仕事を再開する母。食器を食卓に並べなければいけないのだ。

そのときリコは台所にいるのが、自分と母の二人だけではないことに気付いた。母の体が死角になって見えなかったのだが、女の子が椅子に座って、手持ち無沙汰な様子でいたのだ。彼女はリコを見ていた。目が合った。

途端にリコに顔は真っ赤になる。つつつ、と母に近寄ると、こそこそと耳打ちする。

「ちょっとお母さん。お客さんがいるならいるって言ってよ。恥ずかしいところ見られちゃったじゃない」

「何言ってるの。あなたのお友達でしょ」

「え? 知らないよ」

「リコのお友達でしょ。二階から降りてきたわよ、あの子。昨日お泊りしたんじゃないの」

「怖いこと言わないでよ。あんな子知らないよ」

「冷たい言い方ねえ、友達でしょ」

「人の話聞いてる?」

「でもどうしましょう。追い出すわけにもいかないし」

「どうしてよ。不審者だよ」

「かわいそうじゃない」

「じゃあ、警察呼ぼうよ」

「何も悪いことしてないのに?」

「してるでしょ! 不法侵入!」

「でも……」

「じゃあお母さんはどうしたいの」

「そうねえ……。この子を預かりましょう」

「預かる、って何?」

「この子、迷子なのよ」

「断言するのね」

「だから帰る場所を思い出すまで預かりましょうよ」

「おまけに記憶喪失ですかそうですか」

今日の母はおかしい。普段からおっとりのんびり、深く物事を考えるたちではないが、今日のこれは酷すぎる。飼い犬が喋ったことにも驚くわけではなし、見も知らない人間がすぐそこにいても、怯えるでも慌てるでもない。リコは頭を抱えた。

「はあ」

ついでに溜息をついた。



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