第15話 君を愛することはない
ご覧いただき、ありがとうございます。
「婚約者……」
クレアは思ってもみなかった皇太子からの言葉を聞いた途端、全身から力が抜き出ていくのを感じた。
おそらく、クレアが現在置かれている状況から考えて、持ちかけられる可能性の事柄から最も遠いものだと思われる「婚約」の申し出。
相手を間違えてはいないのだろうか……。
それこそ、先ほど立ち去ったイリスに持ちかけるべき言葉だったのでは?
そう巡らせると、すぐにあることに思い当たる。
(そうだわ。婚約を解消すること自体は中々難しいだろうし、……もしかして)
真っ直ぐにクレア自身を見つめるアーサーと視線を合わせると、何か物悲しい憂いのようなものが瞳に含んでいるように感じた。
(イリス様が第一皇子様と婚約を解消するまでの間の、繋ぎの婚約者が欲しいのかもしれないわ。確か皇太子に就任したからには婚約者が必要になるはずだし……)
──つまりクレアは、皇太子の期間限定の仮初めの婚約者に選ばれたのだ。
(確かに、人質の王女の私は実質何の後ろだてもないし、婚約を解消することも国内の令嬢と比べたらきっと容易にできるのかもしれない)
それならば、二人の仲を応援するためにも一肌脱ぐのも悪くない。
……ただ、イリスが無事に第一皇子と何の後腐れなく、婚約を解消することができればよいのだが……。
軽く深呼吸をしてから、アーサーから視線を逸らさずに告げた。
「……承知いたしました。婚約をお引き受けいたします」
アーサーも軽く息を吐く。
「……ありがとう。これからよろしく頼む」
「はい」
その感謝の言葉はとても嬉しかったのだが、クレアのどこかがチクリと傷ついたように感じたので、気がつけば彼女は無理して笑っているような笑顔を浮かべていた。
その表情を見たからなのか、アーサーは小さく手のひらを握って胸に当てた。
「クレア王女。これから君には私の婚約者として過ごしてもらうことになるが、私が君を愛することはない。それが婚約の条件だ」
なにも、仮初めの婚約者の自分を愛する必要はないのでは、とクレアは首を傾げたが、アーサーの瞳があまりにも真剣だったので疑問は口に出さないことにした。
「承知いたしました。常に心に留めるようにいたします」
「君はそれでも良いのか」
「はい、一向に構いません」
アーサーは目を細めて小さく息を吐いた。
「だが、引き受けてくれた以上、君の望みは叶えたい。何でも言って欲しい」
「望み……ですか?」
「ああ。君が望むのなら帝国一の仕立て屋を招いてドレスを仕立てるし、目利きのできる宝石商を招待しよう。他にも君が望むのであれば……」
「……でしたら、ある侍女と下女を助けていただきたいのです」
アーサーの動きが止まった。
「侍女と下女?」
「はい。彼女たちは私の一助となるために危険に身を置くことになってしまったのです。一応対策はいたしましたが、正直なところ安心はできないのが現状です」
先ほどトスカはあのように言ってはいたが、いつ皇女たちの気まぐれでリリーたちに牙が剥くか分かったものではない。
できることなら、恩のある二人を少しでも危険因子から切り離したかった。
「……分かった。直ちに現状を把握し取り計らうよう手配する」
「……ありがとうございます!」
(良かった。これで二人は安心して暮らすことができるのね)
心から安堵し胸を撫で下ろしていると、アーサーが更に声をかけた。
「君自身は、何か望みはないのか?」
「私自身ですか?」
「ああ。君の個人的な願いはないのだろうか」
今までそのような問いを人から投げかけられたことなどなかったから、戸惑い口が吃ってしまう。
だが、純粋な日頃からの要望が自分の中で渦巻いていることに気がつく。
「……自由が欲しいです」
「自由?」
「はい。……一日のほんの僅かな時間で構いません。自分自身が望んで使える時間が欲しいのです」
自由な時間。それは今のクレアにとってはとても贅沢なことだ。
というよりは、この国に人質として連れてこられてからこれまでそのような時間などあっただろうか。
それに、そのような時間が持てれば、仮初めの婚約者の役目が終わった後、自分自身で身を立てて自力で生きていく力を身につけられるかもしれない。
そう思考を巡らせると、その望みが叶えばよいという気持ちが高まるが、あまり期待しすぎてもよくないと自戒の念を込めた。
「……分かった。それもできうる限り取り計らおう」
「……ありがとうございます」
まさか聞き入れられるとは思ってもみなかったので、半分生返事で応えてしまった。
「……それでは、早速報告へ行こうと思うがよろしいか?」
ピタリとクレアの動きが止まった。
「報告と言いますと……」
「父上……皇帝陛下の元へご報告へ伺うがよろしいだろうか」
「……皇帝陛下……」
クレアは、血の気が引いていくのを感じながら、この婚約が一気に現実味を増したと思ったのだった。