第14話 婚約者になって欲しい
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「……お取り込み中のところ、大変失礼をいたしました」
震える身体を何とか抑えながら、クレアは必死に声を上げた。
「……このことは決して口外致しません。ですから、どうかご慈悲を賜りたいと存じます」
アーサーは頭を下げるクレアを訝しげに思ったのだろうか。
しばらく周囲には、誰も声を発せず沈黙が流れたが、一呼吸を置いてからそれを打ち破るように高く通った声が響く。
「……もしかして、あなたはクレア様でしょうか?」
その声に咄嗟に顔を上げるが、まだ許されていないのに顔を上げたことに対して内心後悔を抱いた。
一国の王女とはいえ、現状では皇女たちに虐げられている人質王女でしかない自分と、ブラウ帝国の由緒正しき名門の公爵令嬢。
どちらが優位に立っているかなどは、火を見るより明らかであった。
「……はい」
「まあ、どうしてこんなところにおられるのですか?」
尤もな疑問であるが、それはお互い様であろうとも思う。
「それは……」
咄嗟に振り返ると、そこにはもうトスカの姿はなく、ただ薄暗い風景が広がるのみだった。
(トスカ様……、逃げたのね……)
皇女たちによる普段からの仕打ちからこういったことには慣れてはいるが、流石に氷のように冷たい表情を浮かべてくるアーサーを目前にすると、ただただ平伏したい気持ちが襲ってくる。
「夜風に……あたりたくて……」
何とか絞り出した声は、掠れて全く頼りなく感じた。
「そうでしたか。ですが、わたくしたちはまだ所用がありますの。よろしければ、少々外してくださらないかしら」
渡に船とはこのことかと喜んだが、クレアの脳裏に先程のトスカの嫌な笑顔が浮かんだ。
(駄目だわ。このまま何も言わずに立ち去ったら、トスカ様が二人の噂を流してしまう可能性があることを伝えられないわ。それは何としても避けなければ)
そう強く思うと、あることにおもいあたる。
(そういえば、元々皇太子殿下の婚約者になるはずの方がいたとトスカ様から聞いたことがあるわ。もし、それがイリス様だとしたら、尾ひれをつけた噂が広がってしまうかも)
そのような噂が実際に流れてしまえば、皇太子と第一皇子の間で帝国中を巻き込んだ争いが起こることに繋がるかもしれない。
それによって、流さなくてもよい血が流れる可能性があるのだ。
──それは、絶対にあってはならないことだ。
「……実は、先ほどまで第二皇女様もご一緒しておりました。……お二人がこの場でお会いになってらっしゃるところをはっきりと目撃しております」
考えてみれば、中庭の出入り口には皇宮専属の二人の護衛騎士が控えているのだが、皇太子らは彼らに何か手心でも持たせたのだろうか、とふと思った。
「トスカ皇女殿下が……。皇太子殿下」
「ああ、早速すまない」
「いいえ、これも我が公爵家の努めですので」
二人の会話は聞こえているが、話の主題が掴めないのでいまいち理解がし難かった。
「それでは、わたくしは大切な要件がありますのでこれで失礼をいたします。クレア様、いずれまたお会いしましょう」
「はい。ごきげんよう」
綺麗な仕草で辞儀をして返し、星空によく映えるシルバーブロンドの髪を靡かせてイリスは立ち去って行った。
殆ど面識はないはずなのに、まるで幼い頃からの知り合いのような、彼女に対して何とも言えない安堵感を抱いたのは何故だろうか。
そう思っていると、残された皇太子が自分に対して真っ直ぐ視線を投げかけていることに気がつく。
とはいえ、それは先ほどのような刺すようなものではなく、和らいだ穏やかさを含むものだった。
「クレア王女」
その口から自分の名前を紡がれただけで、何故か酷く目の奥が熱くなった。
「……はい」
「君とは、これまであまり面識がなかったな」
「はい」
側室の子である皇太子は、幼い頃から今まで殆ど帝国の属国で過ごしていたこともあるし、ましてやこれまで離れや皇女宮でほぼ軟禁状態で過ごしてきたクレアは彼と会う機会など殆どなかった。
ただ、幼き頃に強制的に参加をさせられた皇宮内で開催されたパーティーで一度姿を見かけたことはあったのだが。
「そのような君に、このようなことを頼むのは気が引けるのだが」
依頼……。皇太子は自分に一体どのようなことを頼むというのだろうか。
まさか、イリス公女との仲が疑われないようにと偽装工作の手伝いの要請だろうか。
「……私でよろしければ、皇太子殿下のお力になってみせます」
ちなみにクレアは、行儀習いの講師たちからは、皇子や皇女のことを殿下と呼びようにと普段からキツく言われていた。
そんなことよりも現状の待遇の改善を訴えたかったが、周囲に不満を抱いていると思われかねなかったので言い出せずにいた。
「ああ、それは頼もしいな」
皇太子は小さく笑みを浮かべるが、すぐにそれを消し去った。
「君に、私の婚約者になって欲しいんだ」
途端にこれまで感じていなかった夜風を肌で感じ、それらは冷たく刺すように感じたのだった。