第1話 不遇な人質王女
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「クレア王女。これから君には私の婚約者として過ごしてもらうことになるが、私が君を愛することはない。それが婚約の条件だ」
「承知いたしました。常に心に留めるようにいたします」
美しい満月の夜。
今宵、ブラウ帝国・皇宮内の舞踏場では、同国の皇太子披露パーティーが開かれていた。
その最中、彼らは人気のない中庭でお互いに向き合いながらも、それぞれ少し離れた場所で立っていた。
会場内で奏でられている弦楽器の心地のよい音色が、微かに耳の中で響く。
「愛することはない」と目前の少女に告げた夜空に映えるプラチナブロンドと琥珀色の瞳が印象的な青年は、今宵のパーティーの主役である同帝国の皇太子である。
そして、彼がクレア王女と呼んだ亜麻色の髪の少女が紡いだ言葉は、彼にとって予想外の内容だったのか少し目を細めたのだった。
「君はそれでも良いのか」
「はい、一向に構いません」
「……それでは、この婚約を交わすにあたって、君自身は何か望みはないだろうか」
「私自身ですか?」
「ああ。君の個人的な願いを訊きたいんだ」
今までそのような問いを人から投げかけられたことなどなかったから、少女は戸惑いから口を籠らせてしまう。
だが、日頃からの純粋なある要望が自分の中で渦巻いていることに気がついた。
「……もし、可能であれば、……自由が欲しいです」
「自由?」
「はい。……一日のほんの僅かな時間で構いません。自分自身が望んで使える自由な時間が欲しいのです」
透き通るような碧眼を輝かせ、薄く微笑んだ少女の亜麻色の髪を夜風が優しく撫でていったのだった。
◇◇
時は遡り、約一週間前。
ブラウ帝国、皇女宮の三階に位置する皇女のみが使用することのできるティーサロン内では、先程から神経質な金切り声が響いていた。
第一皇女・イザベラの声である。
「クレア! 紅茶が冷めちゃったじゃないの! 早く淹れ直しなさい!」
「……はい。ただ、お湯が切れてしまいましたので、ただいま入れて参ります」
「急いで! ……全く、使えないんだから」
「申し訳ございませんでした」
深く辞儀をした後、クレアと呼ばれた亜麻色の髪を頭の後ろで纏めている少女は、テーブルの上に置いてあるティーカップをソーサーごと手持ちのトレイに乗せ、退室するべく向きを変えて歩き出した。
すると、急に何かがクレアの足元に飛び出てきたように感じたので、咄嗟に動きを止めた。
その甲斐もあり、その何かと衝突することは避けられたようだが、……何だったのかと確認をすると、案の定第二皇女であるトスカが彼女を転ばすためなのか、わざと足を伸ばしていた。
またか……と心の中で小さくため息を吐きながら、それでもクレアは表情を変えずに歩き出した。
「何で引っかからないのよ!」
自分の悪事を隠そうともしない。
彼女たちは、常日頃からこのようにクレアに突っかかっていき、あからさまな嫌がらせを行っているのである。
というのも、日頃から皇女らには複数の専属の講師が付いており、皇族のマナーや歴史学、数学、地理学等などを教わっているのだが、その講義の内容が難しく厳しいからと日頃の鬱憤を人質の王女であるクレアにぶつけて憂さを晴らしているのだ。
(……こんなことをしても、何の解決にもならないのに)
もう随分前からクレアの心は冷え切っている。
毎日一挙一動を否定され、罵声を浴びせられ続けたためなのか自分自身の感情を殆ど感じなくなり、表情からは喜怒哀楽が抜け落ちていた。
何とか心が折れないように踏ん張れば踏ん張るほど、より心が冷たくなっていくように感じるのだった。
「それでは失礼いたします」
辞儀をしてから扉を閉めしばらく歩いたあと、小さく息を吐く。
もう何も感じなくなったはずだが、それでも思わず手のひらをギュッと力強く握りしめていた。
紅茶を淹れ直すためには、もう一度お湯を用意する必要があった。
何故なら、何度も第一皇女イザベラにお茶を淹れ直させられて、ポットの中のお湯がなくなってしまったからだ。
給仕室へと入り給仕の女性にお湯をポットに注いでもらっていると、背後から嫌な気配が漂ってくる。
「クレア様」
「はい。如何いたしましたでしょうか」
振り返ると煌びやかな翠色のドレスを身につけた皇女宮・侍女長のモーラが立っていた。
表情は険しく眉を吊り上げている。
「これまで何度も申し上げておりますでしょう。こういったことはわたくしたち侍女の役目なのです。ユーリ王国の王女たるあなた様がなさるようなことではございません」
そう言った彼女の目元は歪んでいて、まるで嘲笑うような表情を隠しきれていないことをクレアは見逃さなかった。
モーラに見つかるといつも決まってこのような嫌味を言ってくるのだが、やはりもう何も感じなかった。
「左様ですね。……でしたらあなたが代わりに運んでただけますか? ただ、イザベラ様とトスカ様は私に紅茶を淹れ直すようにとご指示をお与えになられたのですが」
「……でしたら、わたくしが出しゃばるような真似はいたしません」
「……左様ですか」
モーラは会釈もせずに眉を吊り上げながら退室して行ってしまった。
いつもこのような調子なのだ。
モーラは二人の皇女の専属の侍女長であり、名目の上では人質の王女であるクレアの侍女でもあるのだが……。
「モーラ様は相変わらずお綺麗でしたね」
給仕の者が後ろ姿のモーラを見送りながら、クレアにポットを手渡した。
「……ええ」
「仕草も素敵ですが、やはり侍女の方のお召し物は艶やかで憧れです」
「……左様ですね」
給仕の女性はクレアの気持ちが分かっているのか分からないのか、ポットを渡し終えたら無邪気な笑顔を綻ばせて自分の仕事へと戻って行った。
彼女を見送った後、自分の着ている衣服に視線を移す。
それは簡素な白地のブラウスに黒のスカートという、このブラウ帝国では平民である下女が身につけるお仕着せであった。
貴族である侍女は、皆ドレスを身につけているのだ。
クレアはもう五年も前から就寝時や特別な時以外は、この衣服を身につけるように皇女たちから命令されていた。
つまりクレアはこの皇女宮では王女ではなく、ましてや貴族でもない。平民以下の下女の扱いをされているのだ。
(ここには私の味方は誰一人だっていない。この敵国で、私は独りで生き抜かなくてはならない)
クレアは手のひらを再びギュッと強く握り締めたのだった。
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