―7―
期末考査が終わってしばらく経つと、野球部は夏の大会に向けた遠征練習のため、通常の授業は午前中だけとなる。遠征の場所によっては、翌日に余裕をもって登校する事が出来ない場合もあるので、午前中の授業にも出席できない事はざらである。
したがって、大会が一段落するまでは、わたしは喜田村先輩に会えない事になる。
「大方、それが理由だろう? ここ最近そうやって落ち込む回数が増えたのは」
そうやって落ち込むたびにずばずばと軽口を叩くのは里子だ。わたしは自分の机に突っ伏して、時の流れの速さをただただ嘆いていた。
「だってさ……先輩からのファンレターの返事、まだ受け取ってないんだよ」
「待ちきれないのは当然だけど、事は喜田村先輩のスケジュール次第だからね。つらくても待つしかないと思うよ」
里子はわたしの前の席に座っていた。ちなみにそこは里子の席ではない。その席の主は別のグループに交じって談笑していた。
「うぅ……」わたしは身をよじった。「本格的に気温も高まってきて、ただでさえ暑さでストレスが溜まりやすいこの時期に、心のオアシスがいないなんて……」
「冷房の効いた所に行けば?」
「身も蓋もない……『わたしがオアシスになってあげようか』とか言ってくれないの?」
「わたしにできるのは、寒い駄洒落を言って体感温度を下げることだけだよ」
確かに、先日の地口のオンパレードは寒かった。下らないわけじゃなく、明らかにあの状況に合ってなかったというだけで。
「つか、わたしが柚希のオアシスになるって、どういう意味?」
「里子がわたしの予定に笑顔で付き合ってくれること。買い物然り、ゲーム然り、プール然り、とにかく何でも付き合ってくれれば」
「お断り」けんもほろろに言われた。「そりゃある程度は付き合うけど、見境なく何でも一緒にやるつもりはないから」
「もう、本当に友達甲斐のない子なんだから」
「わたしの性格はあんたもよく知っているでしょ。ほどほどの付き合いで十分」
「今まで何度も言ってきたと思うけど、その性格は少し矯正した方がいいよ」
「人間の行動を矯正するのはたやすいが、性格や信条を矯正するのは難物ね」
小難しく言っているが、結局直す気はないということだ。これも今に始まったことではないので、怒る気にはなれない。半ば呆れるだけで。
「それで? 心のオアシスに会えない今、柚希はいかなる行動を切望する?」
答えは決まっていた。わたしは拳を高く掲げて宣言する。
「ゲーセンでストレスを発散しまくる!」
「試験の復習をしろよ、学生」
そして返される言葉も予想がついていた。なるほど、里子は期待を裏切らない。
「里子、ほどほどがいいのなら、学校の勉強も少しくらい中断していいんじゃない?」
「わたしはいつだってほどほどに勉強しているよ。柚希がやらないだけ」
「くっそぉ、わたしも里子みたいに、ほどほどの勉強でもしっかり結果を出せるような、完成された頭脳があれば……」
「わたしにだってないよ、そんな頭脳。というか持っていない人の方が圧倒的に多いんだから、お前もそれなりに勉強しろ」
言い返す言葉が無い。しかし里子はこのように謙遜しているが、学校の試験で学年二十位台なら、十分に勉強ができる方だと思うが。
今のところ、わたしのすぐ近くにオアシスはない。だから鬱積するストレスを吹き飛ばすこともできないまま、放課後を迎えた。この状態が続くと、学校に行くこと自体が憂鬱になるかもしれない。いや、もう既になりかけている。
いつものように、里子と二人で下校する。二人とも帰宅部だった。
「そういえば里子、部活に入ろうとか思わなかったの?」
「いや、最初から帰宅部で通すつもりでいた。何事もほどほどで済ませてしまう性格のこのわたしが、何かに熱中することなんてまずないし」
「それもそうだね」訊くだけ野暮な質問だったな。
「そういう柚希は、部活に入ろうとは思わなかったの?」
「わたしの楽しみは自分の部屋の中で完結しているから、今さら何か思い切ったことをしようとも思わないなぁ」
わたしは頭の後ろで手を組みながら言った。
「男に惚れれば見境なくアプローチを繰り広げてあえなく撃沈しているのに?」
「さ、里子……そういう言い方は不吉な結果を予感させるから、ほどほどにしてね?」
言われる側は全く気分が良くない。
「冗談だよ」里子はさらりと言った。「でも、今の恋愛が成就する確率が、今までで一番低いという現実からは目を逸らさないことだね」
「はあ、わたしの目の前にはいつも厳しい現実が転がって……あっ」
厳しい現実があるはずの目の前に、思いもよらない人物が現れた。
これまで幾度かわたしの前に姿を見せていた、あの綺麗な女子生徒。逆光で顔には影が差しているものの、こちらを睨んでいることは分かった。腕を組みながら仁王立ちし、視線には一切のブレが無い。
外気はじわじわと熱を帯びてきている。そんな環境でわたしは凍りついていた。首筋を伝う冷や汗が、少し気持ち悪く感じる。
女子生徒はその姿勢のまま、わたし達に言い放った。
「……人のいない所で、少し話をしてもいいかしら」
透き通るような声だった。だけど、言われる側は戸惑わざるを得ない。
「えっと……どっちとお話を?」
「とりあえず両方」
なんだ、とりあえずって。誰に向けて話をするつもりなのだ、彼女は。里子などあからさまに彼女を警戒して、怯えるようにわたしの後ろに隠れている。
「あの、人のいない所で、というのは……」
「他の連中に話を聞かれたくないというだけ。話が済んだらすぐ帰す。両者とも時間に余裕があるのならついてきて」
切り口上の言い方が無性に腹立たしいが、一応学年は先輩なので我慢する。
「時間はあります。でも、どんな話をされるか分からない状況で、簡単にイエスと言うわけにはいきません。ざっとでいいので、事情を話してくれませんか」
女子生徒は、すぐには返事をしなかった。これで素直に事情を話してくれるなら、まだ彼女を信頼できたと思うのだけど……。
「ここで話せることではない。人が多すぎる」
一歩も引かないつもりのようだ。こちらの信頼を得ようとは露ほども考えていない。
上等だ。わたしも、譲歩するという選択肢を早々に捨てた。
「だったらあなたの要求には応じません。失礼します」
わたしと、わたしの背中にくっついている里子は、彼女の隣を通って校門へ駆け足で向かった。彼女が何を企んでいるのかは分からないが、無理をしてまで知りたいとは思わない。一方的に話を切り出されて反論の余地が与えられないなら、それに従う義務などないはず。そう思っていたのだけど。
彼女とすれ違った刹那、小さな、でもはっきりとした声を聞いた。
「私は小野寺芳花」
「え?」わたしは立ち止まって言った。
「それだけは、記憶の隅にとどめておいて」
彼女はそれだけ言うと、わたし達に関心をなくしたように、そのまま背を向けて校舎へと去っていく。結局彼女が明かした事情は、自分の名前だけだった。
「小野寺、芳花……」
珍しい名前の印象だけを残した彼女の背中を見つめながら、わたしは、どこかで聞いたことのある名前だと思い、中身の乏しい記憶の引き出しを探っていた。
そして、不意に思い出した。聞いたことのある、じゃない。見たことがある。
あの、三階の掲示板に貼り出された、期末考査の順位表で……。
「あの人、喜田村先輩と同着一位の人だったのか」
里子も思い出したようで、わたしにだけ聞こえる声で言った。
それにしても、一体どういうことなのだろう。この奇妙な重なりは、果たして偶然なのだろうか。そして、彼女は何の目的でわたし達に話しかけてきたのか。
不気味な胸騒ぎが、わたしの中にじわじわと広がっていた。