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人間が作った物語の登場人物は、概して性格や価値観が固定されていて、だからこそ読者に一種の安心感を与えていると言える。でも現実では、表面的とはいえ人間の性格や価値観は変わりやすいものだ。もちろん、根底までが変わるという事はそうそうないだろうが、人間はとかく集団心理に流されやすく、刹那的な他者の発言に強く影響される。
人生の変動は激しいのが当たり前とささやかれるが、その根本にあるのは、一個人の価値観に潜在する『変わりやすさ』という性質なのかもしれない。集団に属する各々の価値観の変化全体を『空気』と称するのなら、人生がその『空気』に影響を受けてしまうのは必然といえよう。
ゆえに、人生には波がつきものなのだ。予期せぬ変化が予期せぬ場所に来る。
喜田村先輩にファンレターを渡した翌週、廊下に学年ごとの期末考査順位表が貼り出された。学年ごとに違う階をあてがわれているので、違う学年の結果を見るためにはその階にわざわざ移動しなければならない。もっとも、そんな事をする生徒は少数派だけど。
ちなみにわたしの試験結果だが、二百六十人中九十三位。まずまずの結果だと言えるでしょう。里子の方は二十五位だった。
「……こういう試験の順位って、意外に激しく変動するものじゃない?」
貼り出された順位表を眺めながら、里子は呟いた。たぶん、わたしに対してだけ言ったのだと思うけど。
「うん」
「わたし、中学の時から、二十位以上も三十位以下も取った事ないのよ。常に百の位と十の位が固定されている」
「……それさ、常に十位以内に入っている成績優秀者もカウントされるよね」
「わたしの場合、飛び抜けて得意な教科も絶望的に苦手な教科もないから、いつも中の上辺りをぷかぷかと漂っているのよ」
「ねえ、何が言いたいわけ?」
「別に。ただの独り言」
そう言って里子はその場を離れた。わたしは里子の後を追いながら内心毒づいた。そんな意味ありげな独白に付き合ったわたしが、まるでピエロみたいじゃないか、と。
「まあでも、二百六十人中二十五位なら、十分優秀な方だよ」
「何をもって優秀とすべきか、難しいところだね。わたしの場合、人並みに勉強して人並みの真剣さで試験に臨んだつもりだから」
「その『人並み』の基準もよく分からないけどね、わたしには……」
里子の『普通』に対する執着は、聞けば聞くほど苦笑しか出ない。中腹での現状維持を標榜して上昇も下降も目指さない。単に怠け者の言い訳にしか聞こえない。もちろんそんな事は、本人には決して言わないけれど。
今の時世、よほど内部競争の激しい進学校でない限り、試験の順位を堂々と公表することはほとんどないという。台橋高等学校はその数少ない例外という事だ。もっとも、公表されるのは上位百位までだけど。だからわたしは、こうして貼り出された順位表に名前が載った事など数えるほどしかない。里子は当然、毎回名前が載っているのだけど……。
少しだけ気になる事があって、わたしは軽い気持ちで訊いてみた。
「ねえ、里子の成績だったら、高校受験も普通にパスできたよね?」
「……まあね」
「だったら、里子の一年間のブランクはどうして生じたの?」
里子は無言だった。まあ、答えにくい事情がある事は想像がつくけど。
そのまま言葉を交わさず廊下を並んで歩く。少し気まずい。わたしは雰囲気を変えるつもりで里子に提案した。
「そうだ、三年生の結果を見てみない? 喜田村先輩、また一位取ったかも」
「柚希」
里子は静かに言い放った。わたしは動きを止めた。
「わたしはね……試験を、パスしたのよ」
「……はい?」
「それにしても、さ。二十位と三十位の間って、どう表現すればいいのかな。数だけ見れば二十以上三十未満なのに、順位で見れば二十位以下三十位以上が自然に聞こえる。大きさや個数を表す『数』と、順序を表す『数』って、実は根本的に違うんだね。しっかり言葉の意味を決めておかないと、本当に誤解を招きそう」
全く意味が分からなかった。ただ一つ分かったのは、里子はわたしの質問に対して、ひねくれた回答を返したという事だけだ。
「さ、先輩の試験結果を見たいなら、さっさと行こう。昼休みも長くないし」
完全に煙に巻かれてしまった……。わたしは混乱したまま、里子の後を追って三階への階段を上っていく。もう、何が何だか。
二階は二年生の、そして三階は三年生の試験結果が貼り出される。掲示板の場所はどの階も同じなので、結果を見るために人が集まる場所もほぼ同じ。案の定、三階の掲示板の前にも生徒がごった返していた。
「うわあ……あの中に混じって見るのはちょっときつそう」
「大丈夫じゃない? 一位の常連なら、間違いなく名前はこの人達の頭の高さより上にあるから」
つまり、つま先立ちして目を凝らせば、先輩の名前を見つけられるという事だ。
わたしは実際にそのようにして、この人混みに入らずに順位表から先輩の名前を探してみた。さて、今回も一位を取っていれば、最上位に名前があるはず……。
「あれ?」
わたしはこの体勢のまま固まった。最上位にあった名前は、喜田村先輩ではなかった。
「先輩……一位じゃないよ?」
「いいや」里子も同じ体勢で順位表を見ていた。「もう少し見る範囲を広げてみな」
言われた通り、もう少し見る範囲を広げてみた。
最上位の人の一つ下に、喜田村先輩の名前。順位は……一位。
「ああ、そういう事か。同着一位だったのね」
「上の名前、苗字が小野寺だから、五十音順に並べた結果こうなったんだ」
「なんだもう、びっくりしたよ」わたしは胸をなで下ろした。
「いつも一位の人が一番上にないと、確かにひやひやするよね」
「でもすごくない? 同じ点数になるだけでも奇跡なのに、それが一位だなんて」
「確かに確率的にも極めて珍しいだろうね。科目ごとの順位もまた然り……」
里子の視線の先を追ってみると、さらに衝撃的な光景が目に飛び込んできた。五教科すべてで同着一位となっていたのだ。もちろんすべて、上が小野寺さんで下が喜田村先輩。これは……競馬で言うところの万馬券のレベルか。
いやいや、女子高生が競馬の話を持ち込むなよ。わたしは密かに自己嫌悪。
「いやあ、人が群がる理由も分かるよ」と、里子。「ブックメーカーのオッズで千倍の賭けに当選するくらいの希少な事態だね」
ここにもいた。賭け事の例えを持ち出す女子高生。
「こういう時って、カンニングとかの不正行為を疑いたくなるけど、どうやらそれは違うみたいね。よく見たらクラスが別々だし」
この順位表では、名前と一緒にクラス名も表記される。
「いやぁ……こういう事ってあるんだね。十七年生きてきて、初めて見たよ」
「その半生のほとんどで、試験の順位表を見る機会はないと思うけどね」
「そんな野暮な事を……ん?」
ふと視線を横に逸らすと、こちらをじっと見ている女子生徒が目についた。流れるような艶のある長い黒髪と、目鼻のパーツの整った白く細めの顔。佇むだけで絵になるような美人だった。周囲の人々の視線はもっぱら掲示板に注がれているけれど、普通に廊下を歩けば間違いなく、誰もがその立ち居振る舞いに見惚れることだろう。
しかし、わたしは彼女に見惚れる前に、背中が粟立つ感触を覚えた。その視線の鋭さが不意にあの夜の光景を想起させる。金縛りに遭ったかのように、全身が硬直する。
間違いない。あの人は……。
「どうした?」
里子の声で金縛りが解ける。ハッとして振り向く。
「あ、いや、別に……」
「あの女の先輩、柚希の知り合いか?」
里子にも見えているなら、少なくとも幽霊の類いではなさそうだ。
「いや、知り合いじゃないけど……」
もう一度さっきの女子生徒に目を向けると、彼女はこちらに背中を向けて廊下の向こうへ歩いていた。制服のカラーの色は、間違いなく三年生のものだった。
以前にわたしの家の近くに来ていた女性……この学校の生徒だったのか。一体何の目的であの場所にいたのだろう。そして、彼女は何者なのだろう。
「あれ、君たちは……」
すぐそばから聞き覚えのある声が聞こえてきた。いや、忘れるわけがない。
喜田村先輩だ。三年生の教室のある階にいるとはいえ、まさか向こうから声をかけて下さるとは……。どうしよう、緊張してしまう。
「この間、僕にファンレターをくれた……」
「は、はい。二年生の、広瀬柚希れす」
ああ、駄目だ。滑舌が悪い。
「あの時はありがとう。まだ全部の返事は書ききれていないから、君への返事にはもう少し時間がかかるかもしれないけど」
「い、いえ、全然大丈夫です」わたしは目の前で両手を左右に振った。「そ、それに、別に付き合ってほしいとかそういう事じゃないんで、気楽にさらっと書いていただければ」
「はは……さらっと書くのはちょっと厳しいなぁ。貰ったからには、ちゃんと心を込めて返事を書きたいし」
人格者だ。笑顔でそういう事が簡単に言えるとは。
「そういえば喜田村先輩、また連続一位記録、更新しましたね」
「まあね。見ての通り、ぱっと見た感じでは一位に見えないけど。まさか僕に追いついてくる人がまだいたとは……僕も油断できないな」
「先輩はもう進路とか決めているのですか?」
「一応、エンジニア方面で勉強しようかと思っているけれど」
「エンジニア……エンジンを作る的なあれで?」
「コンピュータなどの機械で設計を行う技術者全般の事だよ」と、里子。「もちろんエンジンも作るけど」
「だから、卒業後は工学系の大学か専門学校に決めているんだ」
「へえ……機械を作るのはお好きなんですか?」
「そうだね。子供の時からよく自分でラジオとか作っていたよ」
「えっ! ラジオって自作できるものなんですか?」
「そこから?」里子が呆れたような声を上げた。「基盤が最初から手元にあれば、素人でも簡単に作れるよ」
「ホントに?」
「ああ……たぶん」
わたしに訝るような視線を向けられて、里子は少し自信なさそうに言った。
「絶対作った事ないでしょ」
「まあ、作ろうとする機会がまずないからな」
それもそうだ。そしてこれからもそんな機会は恐らくない。
「それより、二人とも早く教室に戻った方がいいよ」先輩が左手首の腕時計を見ながら言った。「そろそろ昼休みも終わるし」
周りを見てみると、掲示板の前の人だかりがまばらになっていた。もう順位表を注視している人はほとんどいない。
「ですね……。それでは、ファンレターのお返事、いつでも待っていますので!」
少し踏み込んだ会話のおかげで幾分か緊張は和らいだと思ったのに、いざ別れ際に何か言おうとするとやっぱり気が張ってしまい、なぜか敬礼してしまった。これは突っ込まれてもおかしくないのに、喜田村先輩は笑顔を絶やすことなく、軽い敬礼で答えた。
「ああ、なるべく早めに渡すから。それじゃ」
そして、教室に向かっていく人の流れに入って行った。
早く教室に戻った方がいいと言われたのに、わたし達はしばらくその場に立ち尽くしていた。無言のまま先輩の背中を見送っていた。
「サービス精神まで持ち合わせているとは……恐れ入谷の鬼子母神」
「里子、それは古すぎない?」わたしは半眼で里子を見た。
「国語の辞書にも載っている、もはや慣用句と呼んでもいい正統なる洒落だ」
「正統って……そのうち、驚き桃の木山椒の木とか使いそう」
「あれま、柚希がそんな言葉を知っていたとは。びっくり下谷の広徳寺」
しばらく沈黙の時間が流れた。どうするよ、この微妙な空気。
すでに周囲から人の影は無くなっていた。
……なんというか、授業に間に合わなくてもいいから、せめてチャイムでも鳴ってこの雰囲気を揺さぶってくれないかな。そんなふうに願っても虚しいだけなので、結局わたしが先に口を開いた。
「……戻ろうか。教室」
「……だね」
この日だけで二度も里子との間に微妙な雰囲気を作ってしまったけれど、それでもわたしはまだ気づいていなかった。恐らく里子も予感していなかった事だろう。
波は確かに来ていた。当たり前に続くと思っていた日常は、この時点から既に歯車を狂わせていたのだ。