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それから一週間後に、学期最後の大きな試験が一斉に執り行われた。わたしは、親友から教わってそれなりに覚えていた内容や解き方を何とか駆使して、追試になどなってたまるか、という強い念を胸に試験に挑んだ。
平日の五日間を目一杯使って戦った結果、これが初めてではないはずなのに、燃焼の具合は非常に激しく、もはやわたしとは思えないほどに疲弊していた。あれだ、ほぼ完全に近い燃焼反応となったのだ。密閉された空間に酸素が一定以上あれば完全燃焼となるのと同じで、脳という空間に詰め込んだ一定以上の知識と知恵があれば、試験と戦うという反応はほぼ完全燃焼となり得る。
「要するに、燃え尽きたという事かな」
理解の速い友人はすぐに飲み込んでくれた。わたしはあまりに頭を使い過ぎたために、脳内回路が過熱状態でうまく働かないのだ。だからこんな、自分でも理解できないたとえを必死に使おうとしてしまう。
「まあ理由はどうあれ、ここまで熱心になれた事は評価してあげよう」
「なんでそこまで上から目線なの?」わたしは教室の机に突っ伏しながら言った。「まあどうでもいいけど。それより、完全燃焼に近い形になった結果、酸素は大幅に減ってしまいました」
「つまり、詰め込んだ知識を忘れてしまったと言いたいわけね。ありがちな展開」
「正直、試験のための勉強って、試験が終わったら必要なくなるよね」
「そうやって極論に走るから成績の回復が一過性で終わるんだよ」
おっしゃる通りです。でも言わせてください。そう思う事にしないと再起不能になりそうなほど、わたしのメンタルは崩壊寸前にあるのだから。
「それで? 喜田村先輩へのファンレターはどのタイミングで渡すの?」
「それだ!」わたしは里子の両手をぐっと掴んだ。「この五日間の試験の憂さは、喜田村先輩への憧憬と恋慕の情でぱあっと忘れてやろう!」
「お前、先輩に一目惚れしてからキャラがおかしくなってないか? いや、これはいつもの事か」
「もう、いつもキャラがおかしいみたいに言わないでよ」
「誠に残念だが、これは事実だ」
などと、特に残念そうでもなく言うのだからたちが悪い。
「ファンレターだけど、これから渡そうかと思ってるんだよね」
「ほお、試験が終わったその日に渡すわけですか」里子はにやにやしていた。
「試験が終わって安心している今ならプロテクトは弱いだろうし、来週を迎えれば順位が一斉に貼り出されてしまうし」
「あれってずいぶん古いシステムだと思うんだよね。今どき、試験の順位を廊下に貼り出す学校なんてほとんどないよ、たぶん。で、それが何の理由になると?」
「だって、自分の順位が判明したら、落ち込んでファンレターどころじゃなくなってしまうもん……」わたしはまた机に突っ伏した。
「いやいや、今回はそれなりに頑張ったんだから、その心配はないと思うけど」
「珍しく励ましてくれるのね、なんだか雹が降りそう」
「あんたもさらっと毒を吐くわね……。ところで、肝心の喜田村先輩の居場所は?」
「今日から部活動も再開されるし、グラウンドにいるんじゃない?」
「んじゃ、さっそく今から行きますか」里子は椅子から立ち上がった。「わたしもこれから特に用事はないし」
「えっ、一緒に来てくれるの?」
そこまでわたしに対して義理堅い性格だと思ってなかったので、わたしは素直に驚いてしまった。そんな反応をされた事が少し不服なのか、里子は肩をすくめながら言った。
「あのさ、あんた一人で先輩の前に立って、落ち着いてファンレター渡せるの?」
アシストをしてくれるという事か。わたしのためにそこまで……。
嬉しさのあまり、先に歩き出した里子に背中から抱きついた。
「ふふ、里子のそういう不器用だけど優しいところ、わたしは好きだよ」
「歩きにくい。離れろ」
それでも振りほどいたりはしないのだから、里子も満更ではないようだ。
わたしは里子と一緒に野球グラウンドへと向かった。予想通り、喜田村先輩を含めた野球部員たちは、いつものように練習に精を出していた。
ところで、これまでは先輩だけを見ていたせいなのか気づかなかったけど、周囲にはわたし達以外にも女子生徒のギャラリーがあった。誰を見るために来ているのかは、はっきりとは分からなくてもおおよその見当がつく。たぶん、わたしと同じだ。
「やはり同じ目的で来ている女子も少なからずいるようだね」と、里子。
「うぅむ、ライバルはかなり多いな」
「ライバルというより、同じ穴の狢だな」
「えー、わたしもあの集団と同レベルだっていうの?」
「ぶっちゃけてしまうと、同じことを考える人は他にも大勢いると思うよ。ほら」
里子に目で促され、わたしは他の女子集団を少し観察してみた。よく見ると、全員が何かしらプレゼントらしきものを手に持っている。お菓子の入った袋とか、手紙とか。誰に渡すつもりなのかは容易に想像できた。
「試験が終わって気が緩んで、憧れの人に近づきたい気持ちを抑えられなくなる人が、あの通り増殖しているようね。まあ、客観的に見てもあの先輩は人気者だろうし、試験開始前からお近づきになる計画を立てる人がいても不思議じゃない。これを同類と言わずして何と呼べばいいのか」
わたしは口元をぎゅっと結んだ。アシストをしてくれるのは嬉しいが、この状況で冷静な分析を試みようとする里子の態度は、なんだか腹立たしい。
「もう、これじゃ渡したところで、わたしも『その他大勢』の仲間入りになるだけじゃない。どうしたらいいのよ!」
「だから、同じことは他の連中も考えているって。たとえ柚希が『好きです。付き合ってください』なんて、実際にするとも思えん申し出をしたところで、似たような行動は他の人たちだって採用するでしょうね。つまるところ、どんな結果になるかは純粋に喜田村先輩次第ってこと」
まるで努力が無駄であるかのような言い草だ。しかも里子の主張には一つも間違いがない。好きです、付き合ってください。そんな台詞、今のわたしの精神状態で言えるわけもない。里子の分析はこの上なく正確だった。
反駁の手段がないわたしは、ただ項垂れるしかなかった。
「ああ……わたしのこの二週間の努力は何だったというんだ」
「全力でぶち当たって粉々に砕け散ったとしても、柚希の性格ならすぐにでも復活できると思うから、わたしはあまり心配してないけどね」
「似たようなことをすでに一度聞いた」
「そうだっけ?」
たかがセクション四つ前の話のはずなのに、もう忘れたとぬかすか。というか、里子がよくてもわたしはどうにもならないのだが。あくまで傍観者を気取るつもりか。
「まあでも、せっかく書いたわけだし、渡すだけ渡してみれば? どうせファンレターの扱いだし、その場で受け取り拒否になることはないでしょ」
「他人事だと思って……」
「わたしが書いたものじゃないからね。で、どのタイミングで渡すの?」
「一応、ここにいるギャラリーが全員去った後で……」
「完全に少女漫画のシチュエーションだね。読んだことはないけど」
ないのかい。それでよく二度もたとえとして持ち出せたものだな。
野球部の練習が一通り終わったところで、ギャラリーが一斉に喜田村先輩の元へと駆け出して行った。例外なく。黄色い声が飛び交う中で、先輩は少し困惑しながらもちゃんと手紙やプレゼントを受け取っていた。なんと全員に感謝の念まで伝えている。作ったような笑顔じゃなく、自然な笑顔で返していた。それがますます女子たちを虜にしていた。
わたしと里子もその集団についていく。ふと、近くにいる他の野球部員の様子を見て、おや、と思った。てっきりわたしは、誰もが喜田村先輩に羨望と嫉妬の眼差しを向けると思っていたのだが、他の部員は笑ったり嬉しそうにしたりしていたのだ。まるで、こうなるのが当然だと最初から思っているように。
少し彼らの心境が気になったので、わたしはそれとなく尋ねることにした。
「すごい人気ですね、喜田村先輩」
「全くだよ」部員の一人が肩をすくめながら答えた。「まあ、キャプテンの人柄を考えれば当然だろうけど」
「人柄、ですか?」
「ああやって女子から色々貰うけど、その全部にしっかりと返事をしているんだよ。数も半端じゃないはずなのにさ。それでいて誰かを贔屓するってこともないし、誰にでも分け隔てなく接するし」
「……部員の皆さんにも?」
「そりゃもう、技術が優れていることはさておいても、部員をまとめるのがとにかくうまいからさ。個人の練習にも嫌な顔一つせずに付き合うし」
「野球部の中でも慕われているんですね、先輩は……」
「あれだけの逸材はなかなかいないよ」別の部員が言った。「一昨年はベスト4で去年は準優勝だったけど、今年は甲子園出場も夢じゃないかもしれないな」
「キャプテンにとっては最後のチャンスだし、これはものにしないと」
こんなに団結力が示されている集団を、わたしは今まで見たことがあっただろうか。喜田村先輩の存在はこういうところにも強く影響しているようだ。
「いやあ、少女漫画の隣にはスポ根漫画があったわね」感心した様子の里子。
「……読んだことあるの?」
「ないよ。どんな作品があるのかも知らないし」
それなら別にいいや。大体スポーツ系少年漫画に、里子の好みがあるとは思えない。
「そもそも、里子って漫画読むの?」
「読むよ。『ブラック・ジャック』は文庫で全巻持ってるし」
そうですか。とりあえずわたしとは趣味が合いそうにないということが分かった。
「あれはサスペンス漫画の傑作だね」
「ん? 医療漫画じゃなかったっけ」
「わたしはあれを個人的に医療漫画だとは認めていない」
言い切ったな。あくまで個人の感想だというなら構わないだろうけど。
漫画の話はさておき、喜田村先輩にプレゼントを渡すという目的を十分に果たした女子たちは、散り散りに去って行った。残りは数人となったところで、部員の一人が先輩に向かって言った。
「キャプテン、あそこにもう一組残ってますよ」
余計なことを。こっちはまだ心の準備が出来ていないというのに。
喜田村先輩は部員が手で示した方向に目を向けると、おや、と言った。
「二人とも、最近何度か顔を合わせたよね」
覚えていてくれた! それだけが嬉しくて頬が紅潮する。
「あ、はい、そう、ですね……それで、ですね、えっと、その、先輩に、あの……。」
「ん?」
ああ、全く要領を得ない。他の子と同様にただ手紙を渡すだけなのに、ここでそんなに緊張してどうするんだ、わたし。
すると、明言はしなかったものの、アシストをすると言ってくれた友人が助け船を出してくれた。全く感情はこもっていないけれど。
「喜田村先輩。こいつが先輩にファンレターを渡したいそうです。返事はいつでも構わないので、受け取ってやってくれませんか」
……助け船、でいいんだよね。相変わらずフィルターなしの直球で言うのか。
さて、アシストをもらったからにはしっかりとシュートを決めなければなるまい。野球グラウンドでサッカー用語の修辞を持ち出すのはあれだけど。
「えっと……」わたしは心臓の激しい拍動を自覚しながら、手に持っていた封筒を差し出した。「う、受け取ってください……」
駄目だ、先輩の顔がまともに見られない。多分わたしの顔は朱に染まっている。とても先輩に見せられない。
すると、指先から紙の感触がなくなった。顔を上げると、先輩がわたしのファンレターを持っていた。そして、にこやかに言ったのだ。
「ありがとう。近いうちに返事をするからね」
……夢みたいだ。いや、他の人の手紙は受け取ってわたしの手紙だけ受け取らないなんて、そんなことがあろうはずはないのだけど、それでも嬉しかった。
先輩のその仕草さえ女子たちには素敵に映るらしく、またしても黄色い声が飛び交い始めた。わたしは声を上げることすらできなかったけれど。感激の度合いが高すぎて。
呆然としているわたしの肩に、里子の手が触れた。
「よかったじゃない。案ずるより産むが易し、ってところか」
わたしはすぐに里子に抱きついた。今度は正面から。
「里子、やったよぉ。ファンレター渡せたよぉ。もう夢みたいだよぉ」
「はいはい、よく頑張りました」
里子は保護者みたいにわたしの頭を撫でた。
この日にもしかしたらわたしは、幸せのピークを迎えたのかもしれない。