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その日は野球部の練習も遅くまで行われるようなので、終わるまでの時間が確保できないと分かった時点で、わたしと里子はその場を離れた。正確には、もう少し先輩の勇姿を見ていたいとごねるわたしを、里子が無理やり連れ出した形だけど。もちろんこれは、成績が低調気味のわたしをいち早く平均レベルまで引き上げてやろうという、里子のありがたい気遣いの現れである。
さて、勉強はわたしの家でやることになったのだが、自分でも予想していた通り、わたしは全く勉強に集中できなかった。
「喜田村先輩……」
わたしの手元にあるノートには、先輩の似顔絵が描かれている。いつの間にか集中力がこちらに向いていたせいか、わたしとしては会心の出来である。
さくっ。わたしの脳天に、何かが刺さったような感覚が。
「こら。お前はいつから美術学校の学生になった」
「いったぁ! いくら何でもシャーペン突き刺すのはないでしょ!」
わたしは頭を押さえながら抗議した。でも里子はすまし顔である。
「すまん、寝ぼけているのかと思って」
「そっちこそすっとぼけないでよ」
「とにかく、その問題集の三十五ページまで全部解ききるまでは、わたしもこの場を離れる気はないから。さっさとやっちまいな」
そう言って里子は座椅子に寄り掛かって携帯を操作し始めた。
「里子もサボらないでやったらどうなの。わたしと同じところ」
「もう終わった」
「なんだとぉ?」わたしは思わず叫んだ。
「柚希がその芸術作品を仕上げるのに費やした時間をかければ、このくらいは余裕で出来ると思うけどね」
芸術作品……分かっていた。これは里子ならではの皮肉だ。
わたしが渋々取り組み始めて、そもそも問題の意味すら理解できない問題に突き当たって苦しんでいる時、里子が携帯の画面を見ながら「おやっ」と言った。
「ふうん、太刀川製薬の治験における不正を記録したデータが、先日亡くなった太刀川会長の自宅から発見された、か……あの事件も急展開を迎えたみたいね」
「里子……ラインでもやっているのかと思ったら、ニュースなんか見てたの?」
「ニュース見なさいよ。来年にはわたし達も選挙権が与えられるんだから、少しは社会問題に対しても目を向けないと」
「そんなこと言われたって……」わたしは後ろ向きに倒れ、床に寝転がった。「教科書に書かれている内容さえ意味不明なんだもん。選挙権もらったってどうにもならないよ」
「それでもいつかは分かるようにならないといけないでしょ」
「あー、そういう重い話は却下。わたしには、安保も簡保も担保も区別つかないし」
「明らかに全部バラバラじゃないか……」
「つか、さっきのニュースもよく分からなかったけど」
里子はため息をつきながら、わたしに自分の携帯を手渡した。どうも、わたしが理解できるように説明する事が面倒だと思ったらしい。
画面に現れている文章を理解できる範囲で要約してみた。
十年ほど前まで、日本の製薬会社として売り上げも顧客数も一位を誇っていた、太刀川製薬という会社があった。だが十年前の八月、開発した薬の販売を国から許可されるために必要な治験という試験において、何らかの不正が行われたとの内部告発があった。検察は当然捜査を行なったが、結局十分な証拠を集めることが出来ず不起訴となった。この事が大きく報道されたおかげで、太刀川製薬は多数の顧客を失い、売り上げも激減して倒産の危機に陥った……。
「太刀川製薬は民事再生法を適用し、一応の立て直しは図られたものの、その後はジェネリック医薬品の市場が台頭するようになり、太刀川製薬はギリギリの運営を余儀なくされている……ふうん、大変だね」
「理解できた?」
「あんまり」わたしは携帯を里子に返した。「そもそも、この治験? とやらで不正があったって書いてあるけど、どんな不正が行われたっていうの?」
「わたしも詳しい事は知らないけど……治験の第二段階は人間の体で行われるんだけど、それは希望者を募る形にして、しかも試験前に副作用などに関する説明をしなければならないの。いわゆるインフォームド・コンセントってやつね」
「また聞いた事のない言葉が出てきた……」
「教科書にも載ってるよ? まあいいけど。本来なら、説明を済ませた後でもう一度希望者を募って、棄権すると申し出る人がいたら断っちゃいけないそうなの。ところが太刀川製薬は、説明をろくに行わないまま治験を開始したのよ。当然被験者の中には、十分な説明がない以上参加する事は出来ないと訴える人もいたけど、国に提出するデータは揃えたかったから、太刀川製薬は事前に大金を支払って無理に参加させたそうなの」
そんな事を堂々と行っていたのか。わたしは一度も耳にしたことがない。というか、昔からニュースなど進んで見ようとはしなかった。
「それで、どうなったの?」
わたしは唾をごくりと飲みながら訊いた。
「幸い、その治験で副作用を発症した人は出なかったから、太刀川製薬はそのままデータを提出して国から販売認可を受け続けていた。被験者も不正に大金を掴まされたという負い目があるから、この事実を表沙汰にすることはないと思っていたのかもね」
思っていたのかも、という事はつまり、製薬会社が被験者に事前に大金を払った事については、確認できなかったのか。
「ところが、その事実が検察に告発されて、そこに書かれている通りの事態になった。誰が告発したのかは、今でも分かっていないそうだけどね」
「里子、詳しい事は知らないとか言っておきながら、ずいぶん詳しいじゃん」
「そう? この程度の事はこれまでもテレビで報道されていたと思うけど」
真面目か。親友の態度に神経を逆撫でされて、わたしは顔を近づけて言った。
「わたしがテレビで見るのはドラマとバラエティだけです!」
「ジャニーズのタレントが出ている、な」
お見通しでしたか。冷静に返されるのはなんだか悔しい。
「ところで、そちらの筆の進みはいかがですかな?」
「じっくり時間をかけて、脳内を熟成させていく事も重要なステップだと思うわよ?」
「要するに全然できていないのね。だったらもう少し居座るわ」
自分の成長の遅さが腹立たしくすら思える。冗談の通じない相手だと知っているはずなのに、下手な冗談で煙に巻こうとしてあえなく失敗する。学習能力が低すぎる。
「居座るくらいだったら手伝ってよ! わたしの実力なんて高が知れてるんだから」
「そのくらいは熟知している。でも実際問題、どうやって手伝えばいい?」
「答えを教えるのはよくないと思うので、解き方を教えて下さい」
わたしは可愛らしく振る舞ってみた。もちろん里子には通用しない。
「答えを教えるのとどれほどの差が?」
訝るような反応を見せたけれど、それでもちゃんと付き合ってくれる辺りはさすが親友である。なかなか素直に教えてはくれなかったけれど。
なんとかその日は、予定されていた量の問題をこなし、ちゃっかり夕飯までご馳走になった里子もようやく帰ることになった。いや、わたしがなかなか終わらせられなかったのが主たる理由なのだけど、それでもここまで付き合う必要はないはずなのだ。友人としての義理か、もしくは単に、我が家の夕飯が食べたかっただけだろうか。
「それじゃあ、ご馳走になったわね。また次の機会を楽しみにしてるから」
里子は帰り際に、確かにそう言った。やはりご飯が食べたかっただけなのか。
考えてみれば、わたしは里子の家庭環境を一切知らない。友人としての付き合いは、親密と言えるほど長いわけでもなく、淡白と言えるほど短くもない。里子がほどほどの付き合いを求めているから、自然とわたしもそれに応える形になっている。だからお互いに、相手の事情に深く首を突っ込むことをしなかった。里子がわたしの事をそれだけ知っているのかは知らないけれど、わたしが向原家について知っているのは、両親と近くの一戸建ての家で三人暮らしだという事だけで、それも里子が語ってくれたことだ。
まあ、里子がわたしの家に来るのもこれでまだ二度目だし、わたしが里子の家に行くのは本人が誘ってきた時だけだと決めている。学校で毎日会うし、休日に二人で出掛けることもそれなりにあるから、その程度ならわたしは苦痛に感じない。
午後八時。里子の帰宅を玄関前まで見届けて、わたしはシャワーでも浴びようかと思いながら家の中に戻ろうとした。その寸前だった。
……誰かが、こちらを見ている。
五メートルほど離れた所にある電柱から、左半身だけを覗かせて、鋭い視線をわたしに向けている女性がいる事に気づいた。切れかかった街灯があるだけの薄暗い空間では、その顔をはっきりと見ることはできなかったけれど、たぶん年齢は、わたしとそれほど変わらないという印象だ。
夜中に無言で佇んでいるとなんだか不気味だ。たぶん、わたしが彼女の存在に気づいている事は、相手も気がついているだろうけど、声をかける勇気はなかった。わたしは逃げるように家の中へと入っていった。
それでもわたしは、なぜか彼女の姿を忘れられなかった。熱いシャワーを浴びても消えることはなかった。記憶の奥底に刻み込まれて、微かな予感となって残っていた。




